トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 68

南泉禅師と黄檗禅師との問答を取り上げて、潙山禅師が仰山禅師に質問して言う。

潙山禅師問う
黄檗禅師は南泉禅師の質問に対して、受け答えができなかったのではなかろうか。
          
仰山禅師言う
いやそうではありません。黄檗禅師には、虎(にもたとえられるような南泉禅師)を虜にしてしまう程の力量があったという事を知る必要があります。

潙山禅師言う
お前の見方には確かに優れているところがある。

潙山禅師と仰山禅師の問答について道元禅師が注釈されます。
潙山禅師の言葉は、当時、黄檗禅師は南泉禅師に応対する事が出来なかったのではないかと言っているのである。ところが仰山禅師が言うには、黄檗禅師には虎にたとえる事の出来る様な南泉禅師を虜にするような力量があったと言われた。黄檗禅師が南泉禅師を虜にしてしまう様な力量があったとするならば、虎の頭を撫でる事が出来るほど、黄檗禅師の力量は優れていたのであろう。

※西嶋先生解説
――ここのところが面白いところであり、また現実にこういうことがあるわけであります。つまり、相手を虜にできるということは、相手の頭をなでることが出来るという事と同じであって、これは我々の社会生活でいくらもあること。人と人との対人関係において、お互いに角突き合わせて、「俺が強い」「俺が強い」と言っているうちは、どうも勝敗が決まらない。ところが一方の力量がはるかに大きいと、相手の頭をなでてしまう。だから頭を撫でることが出来るという事と、相手を自分の勢力範囲に引き込むという事とは全く同じ状態だという事が言えるわけであります。

その点では、お互いに背比べをして、「俺の方が強い」「俺の方が強い」と言っているうちは、なかなか相手の頭が撫でられない。だから対人関係というものは、頭を撫でることが出来るようになると非常にうまくいく。これは会社の組織の中でも同じこと。下の人を使う場合でも、大いに肩をそびやかして「お前たちとは違うぞ」というようなことではなかなか人は使えない。同じ立場に降りて、一所懸命一緒に仕事をやろうという気持ちで付き合って、初めて下の人をうまく使えるというふうな問題は我々の日常生活の上にはいくらもある。だから虎の頭を撫でることが出来るといわれているのは、我々の日常生活に照らしても非常に面白いところ。――

この様に黄檗禅師が南泉禅師を虜にするだけの力量があり、また相手の頭をなでる力量があったという事は、なかなか普通の人には出来ない、独立独歩の行動である。



              ―西嶋先生の話―
                           --つづき

ところが、ロ-マ時代にキリスト教が西洋文明の中に入り込んでまいりますと、キリスト教の考え方では、物と心とはまったく別のものだと言う考え方が基礎にありますから、西洋文明の中における考え方も自然に、心と物とは別だと言う考え方で、その考え方が基礎になって西洋文明が発達してきたと、こう言う事がいえるわけであります。だから西洋の人にとっては、体の状態を正しくしておく事が心の状態を正しくすると言う事は中々考えられない。坐禅をしていると智慧が出て来ると言う事を中々考える事ができないわけであります。

しかしながら、今日、西洋流の考え方と言うものがかなり行き詰って来ているわけであります。物と心とを別だと考えると、なかなか我々の周囲にある社会的な問題を解決する事は出来ない。そこで西洋の人たちも、最近は物と心とが一つだという考え方に非常に興味を持ち出していると言う事が言えるわけであります。今日、坐禅というものに欧米の人が比較的興味を持つとか、あるいはむこうのカトリックの神父さんが一所懸命坐禅をやるという事は、そういう問題と関係あるわけでありまして、今後、西洋の思想の中にも、物と心とが一つだと言う考え方が入り込んで、それが発達していきますと、西洋流の文明もかなり様子が変わってくる、そうしてまた新しい段階に進んでいくのではないかと考えられるわけであります。
  
その場合に、智慧というもの、正しい判断の基礎というものが、今後の文明において非常に大切な役割をするのではないか、そういうふうにも想像されますし、そういう考え方の出発点になるのが坐禅だと、そう言う事も言えるかと思うわけであります。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


                         
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

FC2カウンタ-