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正法眼蔵 仏性 67

黄檗禅師と南泉禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

黄檗禅師は南泉禅師の言葉に対して、黙って何も言わなかったと言われているけれども、これは黄檗禅師がただ黙っていただけである。南泉禅師から否認されたので、返事が出来なくて黙っていたと言う事ではない。また南泉禅師の言葉に不満があって黙っていたと言うわけでもない。本当の僧侶というものは、そのようなものではない。相手からやり込められて黙っているという事もないし、相手から言われたことに不満で黙っているという事もないものである。

銘記せよ。黄檗禅師はただ黙って坐っておられたけれども、その動作の中にはっきりした主張を無言のうちにしておられた。その事は、大声で笑っていても、その笑いの中に非常に鋭いものを含んでいるという場合と少しも違わない。

黄檗禅師のように、ただ何も言わずに黙っていても、その黙っている状態の中にはっきりした主張をしているような状態が、仏性(仏としての性質)が明々白々として現れている状態であり、その状態というものは、朝の食事も十分満足して頂いた、昼の食事も十分満足して頂いた、という満ち足りた状態に他ならない。



              ―西嶋先生の話―

仏教の言葉で智慧と言う言葉がありますが、智慧というのは、普通一般に考えられている様に、ものを考える力と言う事ではなしに、我々が日常生活でいろんな判断をする場合に、正しい判断の基礎になるものを智慧と言うわけであります。我々が生きていく上において、智慧があるか、ないかという事は非常に大切な事で、我々は朝から晩まで、どう生きたらいいかと言う事で、瞬間、瞬間に判断を迫られているわけでありますが、そういう判断をする場合に、正しい判断をする基礎が智慧と言う事であります。
  
我々が坐禅をやっている時に、智慧と言うものが自然に出て来るという説明の仕方も出来るわけでありまして、そういう点では正しい智慧を持つという事が大事であるということが、我々が毎日坐禅をしなければならんという事と関係があるわけであります。なぜ坐禅をしていると智慧が出て来るかと言いますと、坐禅をしている時というのは体を正しい状態に置いている時、と言う事が言えるわけであります。そうして、我々の体を正しい状態に置いていると、心の働きも正しい状態になる、というのが仏教の考え方であります。

つまり仏教では、物と心、あるいは体と心というものが一つのものと言う考え方が基礎にあるわけでありますから、我々の体を正しい状態に置いておけば、正しい智慧が出て来ると考えるわけであります。また事実もそうなっているわけであります。ところが、西洋流の考え方からは非常に珍しい考え方であります。西洋では心と物を別のものだと考える。心と体はまったく別のものだと言う考え方が、西洋流の考え方の基礎にあるわけであります。
                        
この心と体が別ものだと言う考え方は、西洋の考え方では古い時代にはなかったと言う事が言えると思います。つまり、ギリシャの時代には、今日でも残っている諺に「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言う諺がありますが、これはギリシャ時代の諺でありまして、したがってギリシャ時代には、体の状態が正しい事と、心の状態が正しい事とは一致すると言う考え方があったと想像されるわけであります。 
                          つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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