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正法眼蔵 仏性 66

黄檗禅師と南泉禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

南泉禅師が「今、お前さんが言ったその程度の理解の仕方では、食費とまで言わないにしても、わらじ銭(あちこちを旅して仏道修行をした事によってかかった費用)は誰かに返してもらう必要があるようだな」と言われた。ここにいう意味は、質素な食事の代価はとにかく我慢するとしても、草履、その他、旅に費やした費用は、誰かに返してもらわなければならないという意味である。

この南泉禅師が言われた言葉の意味というものは、長い生涯の間、何回となく考えてみるべき価値のある言葉である。 食事の費用というものについては、なぜ「当分の間棚上げしてやろう」というふうに言われたのか、十分に心を尽くして学ぶべきである。またなぜ、わらじ銭については、「ほっとくわけにはいかない」と言われたのか。それは、諸国を仏道修行のためにあちこち旅して歩いた歳月の間に、一体どれだけのわらじを踏みつぶしたかと言われているのである。

そこで仮に自分(道元)が南泉禅師と同じような質問を受けたならばこう言うであろう。「諸国を仏道修行のために旅して何の得るところもないようであれば、初めから旅に出ない」と。「自分は旅に出て仏道修行をしはっきり何らかのものを得たので、旅に出て旅費を費やしたという事の償いは立派に出来ている」と。またこう言うべきかもしれない。「さあ、踏みつぶした草履は二足になりましょうか、三足になりましょうか」と。この様な返事をすべきであろうし、また質問の趣旨も、この様な答えを期待したところの質問であったであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
恋愛を仏教ではどのように理解なさってるのかなと。たとえば恋愛ではどうしても相手を獲得したいという欲望が先行していくのは当然じゃないですか。坐禅をして気持ちを平静にバランスを取りますと、一種の逆上せ状態が水を浴びせられたようにシュンとして冷静になっていく。そうなっていくと恋愛している人が恋愛する境地から抜け出してしまうというか、卒業してしまうというか、その辺はどうなんでしょうか。

先生
まず仏教では欲望をどういうふうに考えたかといいますと、いろんな説明の仕方があると思いますけど、一つの説明の仕方としては筏の例えで説明することが出来ると思うんです。たとえば急流を筏で下る場合に、船頭の様子を見ていますと岩が近づいてきますと、ちょうどいい時点で竿を出して岩を突く。そうしないと筏がうまく川下までいかないわけです。あれが船頭が下手でほんのちょっとでも先に竿を突き出すと、そこで失敗して岩に筏がぶつかってしまうし、ちょっと遅れてもまた具合が悪いと、こういうことになるわけですよね。

欲望と言うのは急流下る筏のようなもので、それに乗り合わせてそれをうまく使うという事のほうが大事なんであってね。ところが、えてして川上に向かって筏がいくように一所懸命がんばる人もいるし、それから岩にぶつかることが意味があるという形で岩にぶつかってしまう人もいるし、いろいろです、欲望の使い方も。仏教の欲望に対する対処の仕方は、やっぱりそれを使いこなすことが必要だと。つまり欲望をなくすという事は人間として不可能なことで、なくなるという事は死亡するという事でしかないわけです。
そうすると、持っている欲望をいかに日常生活に役立てるかという事でしかないわけです。それが基本態度です。

それからもう一つ、恋愛問題になりますと、私のそういう問題に対する考え方は、結局、子供をつくるための一つの要素でしかないと、こういう見方です。ですから、たとえば男女間の欲望の問題にしても、子供をつくるとか家庭を持つとかという事を離れて考えた場合には、時間をつぶすだけの価値がないと思います。我々は非常に大事な時間を与えられておるわけですから、それを何に使うかという事が非常に大切な問題であって、男女の問題にしても、家庭の関係でもない、子供の関係でもないという事で時間を使い、金を使い、労力を使うというのは、やはり時間の使い方としてはあんまり利口ではないんじゃないかと、そういう見方です。

こういう見方は今日あんまり流行らんわけでね。小説の書くところによると、むしろ家庭なんかほっぽり出して、そういう楽しみをする事の方が本当の生き方だという考え方もありますが、そういう考え方がこの世の中にはないと言えないけれども、どうも私の見方からしますとそういう事よりも、家庭をつくるとか、あるいは子供を育てるという事と密接な関係があるんであって、そういうものと無関係に独立して男女の肉体関係を考えれば、やっぱりあんまり大した意味はないというふうに私は感じます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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