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正法眼蔵 仏性 65

黄檗禅師と南泉禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

そこで、南泉禅師が「いまお前さんは答えをしたけれども、実はその答えはお前さん自身の考えではないのかどうか」と言われているけれども、その意味は「まさかお前さんの考えではあるまいな」という意味である。南泉禅師の質問に対して「まさに私の考えです」という返事はできない。黄檗禅師の立場から考えて、まさに自分の意見で自分の日常生活そのものだと感ぜられるとしても、その日常生活を一所懸命何物にも頼らずに生きていく人が、黄檗禅師と言う名前で呼ばれている人にだけに限定される性質のものではない。

黄檗禅師と言う一人の人間がいたわけであるけれども、その内容が単に自己だけの言葉ですべてが表現できるものかどうかと言う点が非常に疑わしい。なぜかと言うと、一人の長年の仏道修行者である黄檗禅師の見方というものは、言葉では言い表せないけれども、何を主張し何を意味しているかという事は明々白々として隠し様がない。

黄檗禅師は「さあ、どうでしょうか」と言われた。この言葉は宋の国おいては、自分の持っている能力について質問を受けた場合に「自分にはその能力がある」と言いたい場合でも、「さあ、どうでしょうか」と言うのである。この「さあ、どうでしょうか」という言葉は、必ずしも「自分が持っていない」という意味ではない。この言葉は、その内容が一体どの程度の大きさかという事は、必ずしも推察することが出来ないほど大きな意味を持っている。

長年の仏道修行者の見方が、黄檗禅師の見方と一致していたとしても、それを表現する場合には「さあ、どうでしょうか」と言う言葉になるのである。黄檗禅師の「さあ、どうでしようか」と言う言葉を別の言葉でたとえてみるならば、一頭の去勢された牛が出てきて「モ-」と鳴いたのとあまり変わりはない。しかしながら「さ、どうでしょうか」という言葉を言い得たという事は、まさに真実を言い得た事に他ならない。黄檗禅師が言われた「さあ、どうでしようか」と言う言い方や、さらには真実を言い得た言葉を試しに口に出して言ってみるべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
テキストから離れて、作務(さむ)についてちょっとお話し願いたいんです。というのは私、臨済を少しかじったんですが、坐禅、功夫、と作務における動きという事を非常にやかましく言う。作務をしながら、正念、功夫をするのが、動と静の二本立てで、これで人間が完成するんだというようなことを聞いてるわけですが、坐禅一本やりで行く場合の捉え方、これをひとつ・・・。

先生
仏道というのをどういう表現で言うかというと、「運水搬柴」という言葉を使うわけです。それはどういうことかというと、飲料水を運んだり、燃料の柴を運んだりすることが仏道だという言葉があるわけですが、我々の日常生活というのは、坐禅だけではないわけで、その他にご飯も食べなきゃならん、風呂にも入らなきやならんという事があると同時に、また田畑の仕事をしなきゃならん、柴を刈らなきゃならんというふうな仕事もあって、それも非常に大切な仏道修行と言っておるわけであります。

その場合に、その作務が何で意味があるかというと、それは本質的に坐禅と同じだという考え方がある。そのことはどういうことかというと、坐禅そのものが何かというと、坐っているという行動なわけですね。行動というものはどういう意味があるかというと、ものを考えている場合と、あるいはものを感じている場合とやや違った性質のものがある。つまり書斎でものを考えている、本を読んでいる時と、仕事をしている時とは、ちょっと違う。またおいしいものを食べている時、あるいは劇場で芝居を見ている時と、働いている時とは、ちょっと違う。つまり、一所懸命何かをやっているという事が仏教哲学の出発点、基礎という事です。

だからそういう点では、坐禅もそういう行いの一つであると同時に、水を運んだり、柴を刈るという作業もまた仏教哲学の基礎だという事があるわけであります。ただその場合に、水を運びながらものを考えるとか、柴を運びながらものを考えるという事ではなしに、何も考えずに一所懸命やっているところに仏道修業があるという考え方があるわけですね。だからそういう点では、作務というものを重視するというのが仏教全般の考え方だと思います。

質問
そうすると、ともに三昧になりきるという考え方でよろしいでしょうか。

先生
そういう事です。我々の社会生活における仕事も、仏道修行として立派にそういう内容を持っている。一所懸命仕事をしていることが仏道修行だと、このことははっきり言えるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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