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正法眼蔵 仏性 64

黄檗禅師と南泉禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

そこで、黄檗禅師が「二十四時間の間、何物にも頼ることなく堂々と生活するならば、その事がわかるでしょう」と言われた言葉の意味は、二十四時間の間、何物にも頼らないと言う事が仏性を現していると言う事に他ならない。その点では、日常生活を一所懸命やると言う事に尽きる。二十四時間というものが、仮に我々の日常生活のうちにあるかもしれないけれども、そういう二十四時間と言う様なものは問題にせずに、何物にも頼らずに生きていく事に他ならない。

何物にも頼らないと言う状態が我々の二十四時間の生活に他ならないのであるから、そういう状態においては仏性は明々白々としてすでに現れている。一所懸命二十四時間生きていく事が仏性が現れている状態に他ならない。黄檗禅師が言われた二十四時間というものが、一体どういう時期に到来していると考えたらいいのであろうか。あるいは一体どういう場所に、この一所懸命に生きるという二十四時間が到来すると考えたらよいのであろうか。

今ここに言う二十四時間は、人間の世界における二十四時間を言うのであろうか。人間以外の世界における二十四時間を言うのであろうか。仏の世界における二十四時間が暫定的に姿を現したのであろうか。たとへどんな世界であろうと、何物にも頼らないと言う事が我々の生き方でありあらゆる世界のあり方である。すでに我々が二十四時間と言う時間の世界に生きていると言う事が、何物にも頼り得ないと言う実体でもある。



              ―西嶋先生の話―

日常生活をしている場合でも、頭の中で考えた判断と直観的に生まれてきた判断とのどちらが頼りになるかと言うと、直観的な判断の方が頼りになるんです。もちろん、直観的判断にも色々ありますから、一杯飲んでいる時に「ああ、わかった」と言うのは当てにならない。心身が正しい状態の中で生まれた直観は実に大切なんです。人に対する判断をする場合でも、あるいは経済情勢がどう動いて行くかという問題についても、もちろん学問的に勉強して、だいたいの方向がわかると言う捉え方もある。それと同時に、日常生活の様々な事象を見ながら、世間ではこう言っているが、ちょっと違うのではないかと言う判断があるわけです。

つまり、新聞では景気がよくなる、景気がよくなる、と書いてあっても「ちょっとその判断はおかしいのではないか」と言う事を直観的に感じ取るという事はあり得るわけです。逆の場合もあるわけです。不景気になる、不景気になると新聞には書いてあるけれども「いや待てよ、世間の様子を見ているとどうもそうではなさそうだ」と言う感じもあり得るわけです。そういう点では、判断の基礎として直観が非常に尊いと言うのは仏教の一つの主張です。その直観を「般若」と言うんです。
  
仏教で智慧と言う言葉がありますが、智慧とは頭がいいとか悪いとかではなく、直観的な判断力があるかないかと、こういう事なんです。こういう直観的な判断が人生を生きていく上においても非常に大切です。我々はなぜ坐禅をするかと言うと、そういう直観を得るためにやっているんです。だから、坐禅をやって頭がよくなると言う事よりも、直観力が優れた状態になるのが坐禅の一つのねらいです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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