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正法眼蔵 仏性 63

黄檗禅師と南泉禅師の問答について道元禅師が注釈されます。

ここで南泉禅師が「身心の安定と正しい智慧との双方を同じように学ぶならば、疑いようのない状態で仏性(仏としての性質)が現われてくる」と言われたところの「身心の安定と正しい智慧との双方を同じように学ぶならば」という言葉の意味は、坐禅によって得られるところの体の安定を学ぶという事が、心の安定を得るという事の邪魔にならないから、両方のものを勉強するところに、誰の目から見ても疑い様のない仏性が現れて来ると言っているわけではない。

逆に仏性が現れ出ている状態であればこそ、坐禅の修行も出来るし仏道の勉強も出来る。つまり、勉強したから仏性が現れるのではなしに、仏性があればこそ勉強できるのである。「この意味がわかっているかどうか」というふうに聞かれたのである。仏道の基本的な理論として、明々白々とした仏性が現れると言う言葉があるけれども、一体それは誰がそういう行動をとればこそ仏性が現れてくるのかと言う事を聞かれたのである。これは誰の動作でもない、各人自身がやる行いによって仏性は現れてくる。

したがって、仏性を坐禅と学問との両面から学ぶならば、仏性が明々白々として現れてくる。この趣旨はどう言う趣旨かというふうな質問をする事も、やはり同じ様な真実を伝えている。

※西嶋先生解説
ここでは身心の安定と正しい智慧との双方を同じように学ぶ代わりに、仏性を坐禅と学問との両方から学ぶという言葉に置き換えて、仏性を学ぶことが仏性を現すことであり、また仏性を学ぶという事は、仏性が現に現れている状態であればこそ学び得るのだという、相互の関係にある、という事を言われておるわけであります。


          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分が死ぬまでの間に、こうして坐禅の修行が出来たという事は、私、本当にありがたいのですが・・・。

先生
うん、うん。その通りだと思いますよ。だからね、理論を勉強する事は苦しみを重ねるんです。一所懸命、宗教問題を理屈だけで勉強していると苦しくて苦しくてしょうがない。ますます自分の行動の動きが取れなくなるという事情があると思います。で、そういう苦しさを何によって開放する事ができるかと言うと行いなんです。実行なんです。だから、坐禅というものにはそういう意味があって、坐禅がなぜ救いになるかと言えば、それは理屈ではない、行いだからです。

その中身というものを道元禅師は「心身脱落」と言われている。つまり、心が脱け落ちるということは、理屈がいらなくなること。身(体)が脱け落ちるということは、様々な間違った習慣から開放されると言う事でしかないわけ。そういう開放された状態は、行いによって得られる。そういう意味で坐禅が仏教思想の中でかなり大きな意味を持っている、そう言う事になると思います。だから、仏教と言えども坐禅がなければ救いにならないと言えると思います。理屈がわかって来ても、人間は救済されないんですよ。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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