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正法眼蔵 仏性 61

百丈山大智禅師の言われた言葉について道元禅師が注釈されます。

ここにいう五蘊(色・受・想・行・識)と言う五種類の要素とは、いま現に我々が持っているところの崩壊というものを超越した肉体である。我々に与えられている現在の瞬間は、自由自在の世界に出入りする門が開かれているのと同じである。五蘊(色・受・想・行・識)という客観的な世界に拘束されない状態である。

自分の生きている状態を使いこなして、生きていると言う状態に拘束される事がなく、死ぬと言う事を使いこなして、死ぬと言う事の障害を被らない、そういう立場からするならば、わけもわからずに生きるという事に執着する必要もないし、わけもわからずに死ぬと言う事に恐れおののく必要もない。すでに我々の実人生というものは仏性そのものである。いま生きていると言うありがたい境涯をそのまま素直に受け取ることなく、生きるという事に動揺したり、死ぬという事に動揺したり、生きるという事を嫌がったり、死ぬという事を嫌がったりするのは、釈尊の教え以外の教えを信じる人々の行いである。

現在の瞬間における様々な環境をどの様に捉えるかと言うならば、何らの障害ともならないところの客観的な情勢というものを十分に使いこなす事である。これがこの上ない生き方として尊重される具体的な仏であり、具体的な仏の姿である。この様な形で、現実の世界において、行動の世界において、具体的な真実を示して生きていく生き方をしている人々のいる場所が、この上なく清らかな、この上なく素晴らしい国土に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「観音経」にいろんな事が書いてありますね。観音様が三十三人も体が変わる、あれは全部たとえ話ですか。

先生
うん、たとえ話であると同時に、生命にはあらゆる場面で、あらゆる姿を現して我々を救済してくれるという事実があるわけですよ。ですから観音菩薩によって何を表現しているかというと、生命の持っている力を言っておられるわけです。

質問
我々のですか。

先生
そうです。ですから、たとえば剃刀で手を切った。そうすると血が流れてくるけれども、その血が酸素に触れると固まってくる。そうすると血が不思議に止まる。血というものが消毒の役もするし、それがしばらくして血の固まりが取れてみると、皮膚が新しく生まれていて傷がもとに治っている。こういう事実は実に不思議です。ただ、そういう不思議な力というものが我々の持っている生命にはあるという事、これが仏道の基本です。

質問
先生、お話の途中ですけど私が奇妙に思うのは、先生のおっしゃるような科学常識的な体の事はいいですけど、「火に当たってもやけない」とか「水が来ても溺れない」とか「刃の下でも命を失わない」とか、色々たくさん「観音経」に書いてありますね。そういう奇妙なことについてお伺いしているんです。

先生
だから、表現としてそういう記述がなされているという事。「妙法蓮華経」という経典をどういう形で読むかというと仏教文学ですよ。釈尊の説かれた教えがいかに崇高であるかという事を、様々の表現で説かれたのが「妙法蓮華経」です。

質問
じゃ、論理学でもって見ちゃいけないんで、文学で見なさいという事ですね。

先生
そういう事です。「妙法蓮華経」の持っている意味は、釈尊の説かれた教えが言葉で表現することが非常に難しかったから、それを何とか言葉で表現したいという一つの試みだと、そういうふうに捉えることが出来ると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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