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正法眼蔵 仏性 60

百丈山の大智禅師がたくさんの僧侶に説示して言う。

仏(真実を得られた方々)は、最高の生き方をされている方であり、最高の智慧を発揮している方である。釈尊の教えとは、この具体的な人間に関連して仏としての生きかたを確立する事に他ならない。このような生き方が「有仏性」と言われる事態である。仏性があるとかないとかという事ではなくて、現実の生活の中で仏として生きるという事は人々を教え導く師匠である。日常生活において、一切のものを支配し、一切のものから煩わされないと言う状態である。

それは、何らの障害を生む事のない智慧そのものである。この様な状態において、人は初めて原因・結果の関係における束縛を使いこなして、幸福においても智慧においても自由自在にその恩恵に浴する事が出来る。生きている場合においては、その生きているという事に伴う様々な煩わしさについて影響を受けない。また死ぬ場合には、死というものが持っているところの様々な障害というものから、自由な立場で行動することが出来る。

この世の中を形成している五つの要素からなる物質的な世界に処して、真実に関する門が自由に開かれていると同じような状態であり、物質的な外界の束縛に支配される事なく、この世の中においての行動が自由自在であって、どの様な世界にも入ったり出たりする事が出来る。

我々の実人生というものが、この様に自由自在であるならば、あの人は偉いとか、この人は偉くないとか、あの人は金があるとか、この人は金がないとか、人間が勝手につくったけじめというものを乗り越えて問題にすることなく、仮に我々が一匹の蟻と同じ身であったとしても、ただ自分自身が上記のような境遇に入り得ただけで、自分自身が存在するところの世界というものは、すべて清らかな素晴らしい土地であって、その素晴らしさというものはとうてい頭では想像する事が出来ない。これがすなわち百丈山大智禅師の言われたところである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                              
質問
そうすると五体満足でなく生まれて来た人とかは、どう解釈したらいいんでしょうか。

先生
これは、やはり努力が必要なんです。生きていくためには、自分自身の努力が要るんです。だから、今日そういう形で車椅子に乗っている人でも、一所懸命努力してそういう人々のオリンピックをやっていると言う事もあるわけです。自分はもう恵まれていないと言って、ヤケを起こしてしまうか、自分の与えられた現在の瞬間の中で「なにくそ」と思って努力するかの人間の違いがあるんです。で、誰でもそういう状態に置かれているんですよ。不幸だと言ってみても相対的な問題、幸福といってみても相対的な問題。     
「まあまあ、ましだ」と言うだけの事。「まあまあ、ちょっと恵まれていない」と言うだけの事なんです。だから、自分の与えられた環境の中で、それをいかにより良くしていくかと言う事が、一日一日の努力になるわけです。そういう考え方は、きわめて合理的であると同時に、つまらないと普通は考えるんですよ。運がよくて、あんまり努力しなくてもいい結果が得られた方がいいと、たいていの人はそう思っているんです。「努力したらいい結果が得られるんでは当たり前だ、努力しなくてもいい結果が得られなければ宗教の有難みはない」と思っている人は割合多いですよ。
     
釈尊はそういうお考えをとらなかった。自分たちが努力した範囲の事は必ずその結果は出て来る。努力をしない時は、それなりの結果が必ず出て来るとこう言われている。各人が他の人の持っていない絶対の尊さを持っているんですよ。その絶対の尊さをいかに発揮するかと言う事が仏道の全てだと見ていいです。現に障害者であると言う事は、どうにも変えようのない現実なんですよ。そうすると、それを出発点にして、どう努力していくかと言う事にならざるを得ない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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