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正法眼蔵 仏性 58

潙山霊祐禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

衆生(生きとし生けるもの)という、それだけで厳然とした存在であるものの上に、さらに魔物という別のものを持ってきて、これに重ねようとするのである。仏性は仏性として立派にそのまま置いて置けばよいのであり、衆生は衆生として厳然としてそこに存在するのである。衆生が仏性を持っているという主観と客観とに分かれた関係ではない。そして衆生が何とか仏性を得たいと探し回ってみても、衆生には初めから仏性が具わっており、求めると言う事は全く必要がないのである。

張さんが酒を飲んだら、李さんが酔っ払ったと言う様な理屈の通らない事を言ってはならない。もし万一にも、衆生(生きとし生けるもの)に仏性があると主張するならば、その仏性があるといわれた衆生は衆生ではない。衆生の範疇から抜け出してしまう、飛び出してしまう、逸脱してしまう。衆生は、衆生と言うレッテルがなくても厳然とした存在であるから、衆生は究極において仏性と関係づける必要がない。

この様な理由から百丈懐海禅師が「衆生には仏性があると主張するならば、その言葉も仏・法・僧と言う仏教の尊い価値を誹謗する事になるし、衆生には仏性がないと主張しても仏・法・僧と言う三つの価値の尊厳を傷つけることになる」と言われた。この様に考えてくると「仏性がある」と言っても「仏性がない」と言っても、その両方がともに仏道そのものを誹謗する事になる。しかしながら、仮に仏道を冒涜することになるかもしれないが、我々はやはり仏道を勉強していくためには、有仏性とか無仏性という事を論議せざるを得ない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                                 --つづき

質問
そのとおりを、後輩にも勧められますか。

先生
うん。それで、自分の道を自分で選ばないと、自分の人生はなくなるという事、これははっきりありますよ。だから二次的な価値のために、自分の第一義の生き方というものを捨てた場合には、その人の人生はなくなります。ところが今日の社会というのは、だいたい第一義の自分というものを犠牲にして、二次、三次の生き方に従って「これが人生だ」と思ってあきらめているのが、今日の時世です。だけれども、そういう生き方というものは、人間の尊厳を捨てることである。非常に大きな損失を各人が負担しておるという事に他ならないと思います。

だから臨済禅師が「随所に主となる」という事を教えられたのは、どういうことかと言えば、自分自身の第一義に生きろという事でしかないわけです。ところが今日は、社会の機構がそうなっておるから、制約があるから、そう身勝手なことはできないんだという風な考え方を基礎にして、自分の一番本源的な生き方というものを捨てている例が多いわけです。しかし、これはある面からいえば、怠惰な現象ですよね。怠け心ですよね。人生というのは、そう安易に捨てるべきじゃなくて、自分がどうしなきゃならんかという事は真剣に捉えていかなきゃならん。

しかし、その自分の意志というものが客観的な条件から外れていると、あっちへぶつかり、こっちでぶつかり、決していい人生ではない。そうすると、自分の本源というものがどういうものかという事をつかまなきゃならんというのが、そういう生き方の基本にはあるわけです。自分の本源に従いながら、しかも客観的な情勢に合わせていくんじゃなくて合っていくという事が、どういうところから出てくるかという事を考えていくと、やっぱり本源的な生き方をせざるを得ないと思います。その本源的な生き方を探る道として坐禅があるわけ。

だからそういう点では、坐禅というものに頼った生き方というのは、そういう意味を持ってるわけですね。我々は自分自身というものをそう安易に捨ててはならんのだ。自分自身というものをしっかりと保持して、生き抜くだけの義務がある。ただそれと同時に、自分自身というものが、ゆがんだものを自分だと思い込んで主張すると、はたに迷惑をかけるという問題がある。だから自分を貫きながら、はたに迷惑をかけないためにはどうするかという事が、仏道の生き方であり、坐禅を中心にした生き方だと、そういう事になると思いますね。

質問
思い当たることがありますね。ありがとうございました。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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