トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 56

潙山霊祐禅師が、ある時たくさんの僧侶に説示して言う。

一切衆生無仏性(すべての生きとし生けるものには、仏としての性質はない)

潙山霊祐禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
一切衆生無仏性という言葉を聞いて「なるほど、その通りだ」と感じて喜ぶ人々もいる。またこの言葉を聞いて「いや、それはおかしい」と感じて疑う人々もいるであろう。釈尊の説かれた言葉を考えてみると、一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものは、ことごとく仏としての性質を持っている)という主張が釈尊の教えである。塩官斎安禅師の言われた言葉は一切衆生有仏性(すべての生きとし生けるものには、仏としての性質がある)潙山霊祐禅師は一切衆生無仏性(すべての生きとし生けるものには、仏としての性質がない)と言われている。

一方では「有」、一方では「無」である。「ある」と言う主張と「ない」と言う主張は全く正反対の主張である。いずれの主張が正しく、いずれの主張が正しくないかについて人々は迷ってしまうであろう。しかしながら、この二つの主張の中でどちらが優れているかということを考えてみるならば、潙山霊祐禅師の言われた「一切衆生無仏性」の方が、釈尊の教えの中においては優れている様に思われる。

なぜ「無仏性」の方が優れていると考えるかというと、塩官斎安禅師の言われた「一切衆生有仏性」と言う言葉は、衆生と仏性とを二つに分けて、「ある」とか「ない」とかと言う事を考える。それは、一本の杖を二人の人が担いでいるような形である。つまり、主観と客観とが分かれていて一つになった姿ではない。潙山霊祐禅師の言われた「一切衆生無仏性」と言う言葉には、一本の杖の中に主観も客観も呑み込まれてしまった形である。つまり、主観と客観との区別がなくなった状態が感じられる。

※西嶋先生解説
ここで、なぜ一切衆生無仏性(すべての生きとし生けるものには、仏としての性質はない)という言葉の方が優れていると言われたか、あるいは主観と客観というものの区別が「一切衆生無仏性」という言葉では消滅しておるというふうに理解されたかというと、仏道というもの、あるいは現実の世界というものは、言葉の問題ではないという事があるわけであります。だから衆生は仏性があるとかないとかと言っておるうちは、仏道の真実というものに触れることができていないという理解の仕方があるわけであります。

その点では、仏性と言っても言葉、衆生と言っても言葉、だからそういう言葉を問題にしておるうちは仏道は出てこない。衆生というのも現実の実態であって、単に言葉の問題ではない。だからその上に仏性というふうな言葉を重ねて、あるとかないとかと言っておるのでは、この現実の世界の理解としては不十分だという事になる。この「一切衆生無仏性」という言葉の方が優れているといわれた解釈の背景にはこのような理解があるわけであります。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道、仏法から見まして、人間の寿命というものをどっかで説いているところはありますか。

先生
寿命?

質問
はあ、寿命でございますね。しみじみ考えるんでございますね。例えば「ああ、この方は仏になられたけど、ずいぶんご長命されたなあ」とか、「や、この年でどうして亡くなったんだ」とかと。

先生
ああ、その長い短いについて、決まったものがあるかどうかという問題ですか。

質問
ええ。まあ一口に「あの人は寿命が…」という事をよく申しますですね。

先生
ええ、ええ。そういう意味の寿命というのは、仏教的な考えにはないと思います。つまり寿命というのは、いわゆる宿命と言いますか、前世からの原因によって決まったものという考え方が、一つの宗教的な立場としてあるわけですよね。そういう考え方と仏教の考え方を比較してみますと、仏教はどうもそういう考え方ではないですね。あくまでも原因・結果の関係。だから不養生すれば早く短く終わることもできるし、養生すれば長く持たせることもできる。

それじゃ無限に長く持たせることが出来るかというと、無限ではないという事。そういう点ではあくまでも原因・結果の関係でしかないという主張が仏教的な主張だと思いますね。だから「あの人は若死にする寿命だったんだ」とか「あの人は長生きする寿命だったんだ」という事ではないですね。むしろどんな健康な人でも、大酒飲めば早死にするとかということでしかないというのが、仏教的な考え方だと思います。

質問
長生きなさった方は、それ相応の・・・。

先生
それ相応に、心掛けがよかったという事だと思います。

質問
意外と夭折(若死に)した方は、何か不心得があったんではないかと・・・。

先生
まあ、不心得があったとは言い切れませんけれども(笑)、決まった年限があって、その時期が来れば終わりになるという考え方ではないですね。もちろん、親から受けた遺伝というようなものも大きな要素ですから、そういう点では、そういう法則がないという事ではなしに、そういうものも含めて原因・結果の関係でしかないと、そういう考え方ですね。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

FC2カウンタ-