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正法眼蔵 仏性 55

塩官斎安禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

塩官斎安禅師は「一切衆生有仏性」と言う言葉に関する理解を、さらに別の本当の言葉で表現するところまで理解が徹底していなかったとしても、いずれは仏性に関する真実を別の言葉で表現する時期があったに違いない。今ここで言われている言葉が、決してその基本的な考え方を含んでいないと言っているわけではない。そしてまた、塩官斎安禅師が「一切衆生有仏性」という言葉によって、自分自身に具わっている基本的な考え方について、十分にそれを理解し尽くしていたとは言えない。

「一切衆生有仏性」という心を中心にした精神的な考え方が、我々の住んでいる世界には現存しているけれども、やはりその反面、我々の現実世界には物質的な捉え方も必ずあるし、また我々の肉体に関連しても、それを単に精神的なものではなしに、肉体的な実在として捉える捉え方も背中あわせに必ず存在しているのである。この様に考えてくると、塩官斎安禅師は「一切衆生有仏性」と言う絶対の主張を一生を通して初めて言い得たと言う事態もあるし、この「一切衆生有仏性」と言う言葉だけを頼りにして一生を生きられた塩官斎安禅師の生涯もあったと言う事が言える。

※西嶋先生解説             
道元禅師は「一切衆生有仏性」と言う理論だけが仏道のすべてだと言う立場に立っておられないと同時に、塩官斎安禅師がその仏道的な立場を説明する言葉として「一切衆生有仏性」と主張された事に対して、その主張にはそれなりの意味があり、仏道の立場から見て十分肯定する事が出来ると言われておるわけであります。ところが、次の段になると、今度は全く反対の立場から同じ様に仏道を論ずる事が行われるわけであります。

「正法眼蔵」が難しいと言われますけれども、なぜ難しいかと言うと、この様に立場を入れ替えて、同じ事を何回も説かれる事があるわけであります。立場を入れ替えて、全く反対の立場から同じ問題を捉えるわけでありますから、普通に常識的にものを考えている場合には「どうも前と後とが矛盾する、どうもわからない」と言う事になってくるわけであります。しかしながら、我々の住んでおる人生、あるいは世界と言うもの自体が、非常に沢山の要素を具えたところの実体でありますから、一筋縄で、一方的な理論だけで割り切る事が出来ないと言う事が事実としてあるわけであります。

だから、そういう非常に複雑な現実の世界を言葉で捉えようとすると、どうしても二つの立場、三つの立場、四つの立場というふうな複雑な様々の立場から論議をしていかないと、実体を捉える事が出来ないと言う事情があるわけでありまして、釈尊の教えがなぜ尊いかと言うと、そういう事実を発見されて、我々に教えられたと言う事にあるわけであります。釈尊の教えの尊い一つの根拠と言うのは、我々の住んでいる現実の世界の実体というものが、たった一つの一方的な論理では解き切れないという事を発見されたと言う事にあるわけであります。

※私の独り言。
今日は朝から四人の孫(8才・5才・3才の双子ちゃん)に会いに行って、たくさん遊んでいま自宅に帰ったところです。帰るときには孫たち全員が、じじ、ばばが見えなくなるまでバイバイと見送ってくれます。いいもんですね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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