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正法眼蔵 仏性 54

塩官斎安禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

草や木、国や土地など、普通は心と考えられていないものも、仏道の立場から見るならば、全てが心の現われであると捉える事が出来る。それらの草や木、国や土地やその他の一切のものが心の現れに他ならない。それらは衆生(生きとし生けるもの)と言われ、衆生と言われるのであるから、仏性を具えていると言う事が言える。太陽も月も星もすべてが心という言葉で呼ぶ事が出来るし、心という言葉で呼ぶ事ができると言う事は、衆生の範囲に入るのであり、衆生であればこそ仏性を具えているのである。

ここで塩官斎安禅師が言っておられるところの趣旨というものはこの様である。もしこの様に理解しないのであるならば、釈尊の教えの中で説かれている「一切衆生悉有仏性」と言う主張と合致しないのである。いま塩官斎安禅師が言われた趣旨は「一切衆生有仏性」と言う言葉だけである。衆生の範囲に入らないものは仏性がないと言えるであろう。そこで、塩官斎安禅師に私(道元)は一つ質問をしてみたい。衆生に仏性があると言われているが、それでは仏そのものに仏性があるのかどうかと言う事を伺ってみたい。この様に質問して、実体がどうなっているかを試みて見るべきである。

その点では、塩官斎安禅師も「一切衆生即仏性」とは言っておられない。すべての衆生が、仏性とまったく同一だとは言っておられない。塩官斎安禅師は「一切衆生有仏性」と言っている。衆生(すべての生きとし生けるもの)は、仏性(仏としての性質)を持っている、と言っておられる事を学ぶべきである。そして「有仏性」の有(持っている)という言葉は取り払ってしまってもいい。有(持っている)という言葉を取り払うと、仏性という言葉だけ残り、衆生と仏性との間には、なんらの継ぎ目もなくなり「一切衆生仏性」である。その継ぎ目がなくなった状態とは、あたかも鳥が飛ぶ空間の様に、制限がなく、際限がなく、拘束のない無限の世界である。

※西嶋先生解説
――仏性があるという考え方は、心を中心にした精神的な捉え方であり、そういう捉え方をするならば、「一切仏性有衆生なり」この世の中の全てが仏性でありその仏性というものが一切の衆生を自分の中に取り込んでいる。そういう理解の仕方が出来る。――

この様な考え方に立って物事を究明していくならば、衆生というものが一体どういうものかという事を、実体に即して説き尽くすことが出来るだけではなしに、仏性も実体に即して完全に説明することが出来る。



              ―西嶋先生の話―
                         --つづき

痴とは愚痴。我々は何か失敗すると、いつまでもいつまでもその失敗を考えている。「あんな事やらなければよかった」「あれさえなければ・・・」と言う様な事を年がら年中考えている。しかし過ぎ去った事というのは決して戻ってこない。過ぎ去った時間を元に戻して、もう一度やり直したいと言う事は絶対出来ない。どんな偉い人でも出来ない。お釈迦様でも過ぎ去った時間を元に戻してもう一度やり直すと言う事は絶対に出来ない。

我々の人生はそういう仕組みで出来ている。そうすると、過ぎた事はくよくよ考えてもしょうがない。だから今後そういう事がないようにと言う努力にならざるを得ない。そういう点では、愚痴っぽく、グズグズといろんな事を悔やんだり、不平を言ったりする事を避けなさいと言う事。これも感情的に気持ちをふさいでしまって、もっと明るく考えればいい問題を、暗く暗く考えて不平不満で生きて行くと言うふうな生き方もあるわけ。そういうものを避けろと言われている。

釈尊の教えの中でも、この三毒を避けると言う事は、我々の日常生活においてかなり頻繁にある、また非常に役に立つ教えと言う事になるわけです。我々が坐禅をするという事は、自然にこういう状態から離れると言う事をやるわけです。「腹を立てまい、腹を立てまい」と思っていても、なかなか人間そうはいかない。あるいは「欲張っちゃいかん、欲張っちゃいかん」と思っていても中々そうはいかない。「愚痴っぽくなってはいかん、愚痴っぽくなってはいかん」と思っていても中々そうはいかない。ただ、坐禅をやる事によって、体を調整し心を調整しておけば自然に腹立ちが起きなくなる。あるいは愚痴っぽくなる事がなくなる。

そういう形で、体の調整、心の調整が自然にできてくる。そういう意味で、坐禅をやる事が大事になってくる。こういう事があろうかと思うわけであります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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