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正法眼蔵 仏性 52

道元禅師が広利禅寺に到着し、かねてからの疑問を接待係の僧侶にたずねた時の話は続きます。

銘記せよ。この様に仏性について十分な理解がないという事は、釈尊の説かれた教えがすたれてしまった結果である。諸方の住職のうちには、仏性と言う言葉を、一生のあいだ一回も口にせずに終わってしまうというふうな例もある。釈尊の教えを単に抽象的な理論だけで聞こうとする人々は、仏性について論議する。坐禅に参じているところの僧侶は、その様な仏性という言葉を言うべきではないという。このように主張する僧侶はまさに動物そのものである。

何という悪魔と同じような人々が、わが釈尊の教えの中に紛れ込んできて、釈尊の教えを汚そうとするのであろうか。抽象的な教えを聞くとか聞かないかということが、釈尊の説かれた真実の中にあるかどうか、あるいは禅に参ずるという事が、釈尊の説かれた教えの中にあるかどうかという事を十分に検討してみる必要がある。その点では、釈尊の教えの中には、言葉によって表現されたところの教えを聞くとか聞かないとか、言葉の上だけで禅に参ずるとか参じないないとかというふうな主張というものはないのだと知るべきである。

※西嶋先生解説
このように道元禅師は、非常に強いお言葉で一つの主張をしておられるわけであります。こういう主張というものは、我々が普通に仏教を勉強していく場合にはお目にかからない。「正法眼蔵」でなければこういう主張にはお目にかかれない。ところが仏教の主張というものは、まさにこう言う主張。だから今日まで「正法眼蔵」という本が難しい本で、理解できない本だという事で棚上げされてきてしまった。

そのために、仏道そのものが今日まで理解されるものとして伝わってこなかったという事があるわけであります。ただ幸いにして今日「正法眼蔵」という本が我々の時代まで残ったために、こういう文章を忠実に読むことによって、仏道というものが一体どういうものかという事が勉強できると、そういう事になろうかと思うわけであります。


 
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「只管打坐」といういう事は、いろいろなすべての自分というものから考えをすっかり忘れて、「仏の方に投げ入れて」という言葉がどっかにありましたが、そんな気持ちなんでしょうか。

先生
それよりももっと単純なんですよ。坐っていることが坐禅だと、こういう主張です。だから、よく坐禅の解説などを見ますと「ただ坐っていることが坐禅ではない」と、こう書いてあるんですよ。「ほかに何かあるんだ」と、こういう説明の本がわりあい多いけれども、道元禅師はそんな難しいことは言われなかった。ただ坐ることが坐禅だと、こういわれた。そのために「只管打坐」という事を言われた。

ただこの考え方は現在人にはなかなか理解しにくい。ただ坐っておるだけではどうも価値がなさそうだ、何か別にあるんじゃないかと、その「何か」が得たいという風なことが普通の理解の仕方です。しかし道元禅師が言われた坐禅は、そういう難しいものではない。ただ坐っておればそれがもうすべてだと。こういう主張を説かれるために、「身心脱落」とも言われたし、「修証一等」とも言われたし、「只管打坐」とも言われたと、こういうことになると思います。

質問
その「修証一等」というのはどういうことですか。

先生
これはですね、「修」というのは実際に坐禅をやることです。それから「証」というのは体験という意味で、俗にいう悟りと、こういう事です。だから普通の坐禅の考え方からしますと、修行することによって、そのうち悟りが得られるという考え方があるわけです。ところが道元禅師はその考え方は間違いだと言われた。坐禅をしておることと悟りを得ていることとは一つの事だと、まったく一つの事だというのが「一等」という言葉の意味です。

だから坐禅をする以外に悟りというものはないんだと、坐禅さえしておれば悟りの状態の中に自分は坐っておるというふうに確信して差し支えないと、そういう主張がこの「修証一等」という言葉の意味です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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