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正法眼蔵 仏性 51

道元禅師が広利禅寺に到着し、かねてからの疑問を接待係の僧侶にたずねた時の話は続きます。

接待係の僧侶は「住職にわかるはずがない」と言っていたが、接待係の僧侶もやはり理解でなかった。また傍らで我々の話を聞いていた人々も、一言もしゃべらなかった。歴代の住職がその画を見ながら、不思議とも思わず、改め直すことをしなかったのであろう。また仮に描き直そうとしたとしても、それだけの能力はなかったであろう。

我々の住んでいるこの現実の世界というものは、総じて画に描けないものである。もし仮に画に描いて示そうとするならば、正しく誤りのないように画に描かなければならない。しかしながら、この龍樹尊者のありのままの身体を現わす事がすなわち円い月の姿を現すことに他ならないという事を、いまだかつて画に描いた事例はないのである。

総じて仏性とは、現に我々が持っている頭の働きというものが仏性であろうと言う理解の仕方をしている。この様な理解の仕方から目覚めないかぎり「仏性がある、仏性がない」と言う言葉もどう理解していいのか、その出発点さえわからないであろう。そして有仏性(仏性がある)という言葉を言うべきか、無仏性(仏性がない)と言う言葉を言うべきか、と勉強するだけの力量のある人もはなはだ少ない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                                --つづき

質問
私の家が神道なのもですから、仮にこういうふうに教えていただいても、法事とかそういうものと結びつかないわけですね。

先生
うん、その点では、無理に結びつけて気にされる必要はないと思います。例えば我々が会社勤めをしていた時に、社屋を新しく建てるんで、神主さんが来てお祈りするわけですけれども、「そういう席は自分は仏教徒だから立ち会うわけにはいかない」という風なことを考える必要はないわけです。

だから、地鎮祭というものが宗教か宗教でないかという事で訴訟問題になったことがあるようですけれども、そういう事はほとんど仏教の立場、宗教の立場から問題にしなくてもいい。家を建てるときに神主さんが来て拝むんであれば。それでいっこう差し支えないじゃないか、そういう席に立ち会ったから仏教徒として不真面目だという様なことは考えなくていい、宗教というのはそういう形の上の、あるいは世俗のしきたりとは直接関係を持たせなくてもいいんだと、そういうふうに私は見ています。

ですから靖国神社をお参りする、お参りしないなんて言う事も、こだわる必要のない問題だ。国家のために命を失った方々がお祀りしてあるんだから、誰がどう参拝したって一向に差し支えないじゃないか、宗教的な立場に立って、宗教行事だとか、そうでないとかと言ってそう騒ぐ必要はないというのが私の見方です。

質問
しかし、実際問題としてはそれはやっぱり政治問題で・・・。

先生
そうです。ですから、政治の問題として、あるいは世俗的な収入の多寡の問題として、あるいは国家的な保護を受けるか受けないかという問題で騒ぐわけですけれども、そんな事と宗教問題とは全く関係ないというのが私の見方です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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