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正法眼蔵 仏性 49

龍樹尊者の説話に関連した道元禅師の注釈は続きます。

中国(大宋国)において行われた画の描き方に従えば、坐禅の形でわが身を表現する事をせず、円い月を現わす事をせず、満月の姿を現わす事をせず、沢山の真実を得られた方々と同じ様な体の状態を示す事をせず、現実の姿をもって仏の姿を現わす事をせず、釈尊の教えを説くこともせず、むだに画に描いた餅を一枚描いて、それで用が足りたとしている。

その様に画の餅を描くだけで、それが一体何の役に立つかと言う問いかけをすべきであり、現実というものを何よりも優先させて、しっかりと眺めて見るべきである。その様な事をしない限り、どの様な人が現在の瞬間において、あらゆるものに満ち足りて、不足のものは何もないと言う状態になる事ができよう。

月は円相に相違ないが、龍樹尊者の説話における円とは、この生身の体を現実の世界に現わすことである。円いという字を学ぶ場合、円い貨幣のようなものと学ぶべきではない。一枚の煎餅のようなものと学ぶべきでもない。生身の体を現わすという事が、円い月の姿を現わす事であり、その形が満月の姿と同じだと言う事が、生身の体を現実の世界に現わす事によって初めて言い得るのである。そして貨幣や煎餅における円は坐禅によって形つくられる円月相の円に学ぶべきである。

※西嶋先生解説
ここでは、龍樹尊者と迦那提婆尊者に関連した物語が、一体どういう意味を持っておるかという事に関連して、龍樹尊者が単に円い円を示されたと言う事ではなくて、説法の席の上に生身の体で坐禅をしておられたに過ぎないのだ、という事を言っておられるわけであります。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をして感じ取ることが一番大事なんでございますが、その感じるという感じ方は、先生のような方がお感じになるのと、さっぱりわかんない私が感じるのとは、内容が違いますよね。(笑)

先生
その問題については、言葉の説明上、体全体で感じるという事を言いましたけれども、もっと詰めて言えば、誰にも感じ取れないものだ。私にも感じ取れない。○○さんにも感じ取れない。それじゃどういうことかと言いますと、長い間坐禅をしておりますと、坐禅をしておらなかった時と、始めてからずうっと続けてきた時と、「ちょっと違うな」という事が後からわかる。だから、坐禅をしていない時も坐禅をしておる時も、「ああ、これがそうか」というふうなものはないんです。だからその点では、長-い年限、坐禅を中心にした生活をして、しなかった時とした時と「どっかに違いがあるな」という事が感じ取れるという事はあるわけです。

質問
ええ、あります。

先生
だからそのことでしかないわけです。だから、こういうふうに足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておる時に「ああ、何か感じた」(笑)というふうなことはない。これは誰にもない。よく世間では「あるんだ」という主張もある。「そういう事があって初めて一人前で、それがないうちはまだ未熟だ」という考え方もあるけれども、道元禅師の思想はそうではないんです。そういうものはあり得ないんだと、そういうものはないんだと。

だからそういう点では、毎日やるだけが全てだという事になるわけです。「只管打坐」と言われたのは、そういう事ですよね。ゴ-ルがあって、ゴ-ルに入ってしまえば、後はもうのんびり寝てればいいんだ、という事にはならない。坐禅というもの、仏道修行というものは終点がない。人生も終点がないんです。だから一所懸命毎日コツコツと生きていく以外に手はないと、それが仏道の主張です。

質問
ほんとに体に具わってまいりますね。

先生
そうです。だからその点では、気がつかないうちに、体というものの様子が変わって来る。それが坐禅というものの効果です。だから一日、一日「ああ、ちょっと良くなった」「ああ、ちょっと良くなった」というふうに自分自身で感ずるわけじゃないけれども、後から振り返ってみると、「だいぶ違ったな」という事でしかない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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