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正法眼蔵 仏性 48

龍樹尊者の説話に関連した道元禅師の注釈は続きます。

坐禅という手段によって、優曇華の花を示した釈尊に対して摩訶迦葉尊者がにっこりと微笑されたと言う、釈尊と摩訶迦葉尊者との間に行われたと同じような境地というものも、我々に伝わって来るであろう。何故ならば、そのような坐禅という手段によって、我々自身が仏(真実を得た人)となり、仏教界の諸先輩と同じ境地になることが出来るのである。

そのような形で坐禅というものを通して月の姿というものを現わすのでなければ、姿によって示された真実というものもあり得ないし、釈尊の教えを説くという事実もあり得ないし、釈尊の声や姿を示すという事もあり得ないし、釈尊と同じ様な機能を発揮するという事もあり得ないのである。

もし生身の体を龍樹尊者と同じ様にこの現実の世界に現したいと思うならば、坐禅によりわが身を素材として、円い月の姿を現わすべきである。円い月の姿を現したいならば、坐禅によって円い月の姿を現わすがよい。何故ならば、生身の体を現わす事が円い月の姿そのものであり、それは自分自身の体を使って現わす以外に方法はない。円い月の姿を現そうとするならば、わが身を使って実際に現すべきである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―
                             --つづき
         
先生
「正法眼蔵」がよくわからない難しいという事の一つは、我々の心の中に仏教がないからですよ。仏教的な立場でこの本を読んでいくと「なるほど、なるほど」と思われる面がある。ところが我々は子供の時から仏教思想というのを勉強しないで、西洋思想を基礎にして小学校以来ずっと勉強して来ているから、「正法眼蔵」に書いてある思想、仏教思想というものについては我々の考え方とすぐ食い違っちゃうわけです。

だからどうもここはおかしい、あっちもおかしいと疑いたくなる。善悪なし、善悪を乗り越えるなんてことを言っているけど、いや、そんな突拍子もないことを言っちゃ困る。善悪があって、我々は善をやって悪を排斥してというのが本来の教えだという事にならざるを得ないわけですよね。

だけれども、釈尊が言われたのは、善と言っても悪と言っても、そう決めつけられんぞ、という考え方が基本にあるわけですよね。現実というものはもっと複雑な、もっと味のあるものだと。頭の中で考えて、これがいい、これが悪いというようなことで、簡単に色分けしても、問題の解決にはならんぞ、という事が仏教思想の基本にあるわけですよ。

質問   
で、この仏性という事も、そういう事で考えなきゃいけないんですね。

先生    
そういうことです。  


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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