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正法眼蔵 仏性 47

龍樹尊者の説話に関連して道元禅師の注釈は続きます。

中国(大宋国)における在家人、出家人の中、だれ一人として龍樹尊者の言葉が耳に入らず、意味もわからず、また迦那提婆尊者の言葉を理解せず認識しなかったことは、悲しむべき事である。ましてわが身を坐禅の姿の中において、生身の姿を現す事を実際に体験していることが、一体どの程度あったであろうか。円い月が何を意味するかを知らず、満月がどういうものであるかがさっぱりわからない。せっかくの満月を坐禅を通して体験する事のできる立場でありながら、その状態を欠いている場合が非常に多い。

これは古人に学ぶという事が不十分なためであり、古人を慕うことがまだ十分に行きわたっていないところから生まれてくる結果である。そこで、昔から長年の仏道修行をしている人も、最近仏道修行を始めた人も、この際、生身の体をこの現実の世界に現すという事が一体どう言う事かと言う事を坐禅を通して体験し、仮にも画に描いた餅を眺めて、それを楽しんでいると言う事に留まっていてはならない。

銘記せよ。龍樹尊者が生身の体で円い月の姿を現したと言う事を、実際にわが身を持って示そうとするならば、坐禅の席においてわが身を現実に現すという事をすべきである。そういう姿を示す事によって、眉を動かしたり、目をしばたいたりする日常の動作も、きちんとした状態になるであろう。我々の生身の体、皮や肉や骨や髄によって表わされるところの、釈尊の説かれた教えの真実というものは、例外なしに坐禅によってジ-ッと坐っている事によって現れてくるものである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
こないだどっかで聞いたんですが、七福神の布袋様はこんなにお腹が大きいという事は、善悪あわせのんでいるからああいうふうなんだと。ちょっと仏道みたいですね。

先生
善悪というのがあんまりに先立つと、本当のものは見えなくなるんですよ。ところが世間ではそう考えていないですよね。それで自分は善人だと思い込んでいる人がいる。そうすると「あいつもけしからん、こいつもけしからん」と言って人の非難ばかりしている人もある。そうかと思うと「俺はどうせだめだ」と思っている人もある。そうすると、「俺はだめだ、どうせだめなんだから~、このくらいは勘弁してもらえる」というような考え方もあるわけです。

仏道はそういう考え方と別なんですね。善悪なんて、そう簡単に割り切れないと。とにかく一所懸命やるしかないという事、そういう考え方になってくると思うんですよね。だから今日、仏教という考え方はわりあい珍しい考え方ですよ。日本の社会ではなかなか見かけない考え方です。日本は仏教国だから、誰でもが仏教をわかっている、というふうにみんな思っているけれど、仏教思想というのはいま日本の社会にはほとんどないですよ。
                             
                              つづく--


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583:お尋ねします。 by hatamori on 2016/10/11 at 17:18:10

こんにちは、いつも先生のブログ読ませていただいております。ありがとうございます。道元禅師は普勧座禅儀のなかで、「所謂座禅は習禅に非ず、忠是れ安楽の法門なり」と言っておられますが、習禅に非ず、とはどのようなことでしょうか。お願いします。

584:Re: お尋ねします。 by 幽村芳春 on 2016/10/11 at 22:14:03

hatamoriさん、ブログ読んでいただきましてありがとうございます。

「所謂坐禅は習禅に非ず、唯だ是れ安楽の法門なり」の「習禅に非ず」についてですが、
道元禅師は「坐禅をすることによって何か他の目的が得られるという考え方は坐禅の本当の理解ではない」と言われているのだと思います。「正法眼蔵」弁道話の中でも、修行と体験とが坐禅においては一つである、修行することが坐禅の目的である、坐禅をすることが悟りそのものであると。修行と悟りというものとが別にあって、修行をすることによって悟りが得られるという考え方は、仏教を信じない人々の考え方であると言われています。また仏道の初心者が今日はじめてやった坐禅であっても、その坐禅の中には悟りの一切が含まれているといわれています。







プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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