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正法眼蔵 仏性 46

龍樹尊者の説話に関連した道元禅師の注釈は続きます。

龍樹尊者と迦那提婆尊者における師匠と弟子との間で、この様な理解が行われて以降、インド、中国、日本において様々の時代を生きた人々が、たまたま釈尊の教えを勉強した場合、龍樹尊者や迦那提婆尊者の様に「我々の生身の体を現実の世界において活躍される事が仏性と言う姿に他ならない」と主張した人はいない。インド以来たくさんの人々が経典を論じ、経典の注釈をしてきたけれども、どれだけ多くの人々が釈尊の教えを踏み外して誤った理解をして来た事であろう。

中国ににおいては昔から、この龍樹尊者と迦那提婆尊者に関する説話を画に描こうとしたけれども、わが身でその画を描き、わが心でその画を描き、空間にその画を描き、壁にその画を描く事ができず、無駄に筆の先だけで描こうとした結果、説法される席の上に、鏡のように一つの円い輪を描いて、現に龍樹尊者が身体で円い月の姿を現したところだと説明して来た。

そしてその画が描かれてから数百年の歳月が流れた。長い期間、その画は人の目にはいった金の屑の様に、ものの見方の邪魔を成すものであるにもかかわらず、その画が誤りだというふうに説明する人がいない。そしてこの事だけに限らず、仏道に関連した理解について、極めてたくさんの問題について、様々の大きな誤りが行われているという事はたいへん哀れな話である。もし身体によって円い月の姿を現すと言う事が、一つの円い輪を描く事だと理解するならば、これこそ正真正銘の一枚の画に描いた餅である。その滑稽さを批判してみるならば、あまりのおかしさに笑い転げて死んでしまいそうな状況である。



              ―西嶋先生の話―
                              --つづき

また、企業の規模によっても仕事のやり方が違う。だから、30名の従業員を持った企業と、100名の従業員を持った企業と、1000名の従業員を持った企業と、10000人の従業員を持った企業とは、仕事のやり方が非常に違う。組織の組み方も違うし、仕事の手順も違ってくる。共通した原則があると同時に、規模の大小によって、その規模に応じた仕事のやり方というものが、どうしても生まれてくると、そういうふうな問題があります。

そういう事実の中にも、やはり我々の日常生活の中には法というものが内在しておって、どうにも動かすことのできない原則として存在するという事を感ぜざるを得ないわけであります。だからそういう点では、法というものを考える場合に、抽象的な教えというふうに捉えては、仏道というものが理解できない。本屋さんに行って本を買ってくれば、それに活字で法というものが書いてあるんだというふうに理解するなら、それは仏道の理解からは非常に遠い理解にならざるを得ないわけであります。

そうして法というものは何処に求めるかと言えば、我々の体のあり方、我々の心のあり方の中に法というものはある。だから我々がなぜ先ほど坐禅をしたかというと、我々の体の中に法を実在させる、あるいは我々の心の中に法を実在させるという事でしかなかったと、そういう事も言えるわけであります。したがって、法というものは非常に実体的なもの。抽象的なものではなしに、我々の日常生活の中で、我々が現実のものとして実感することのできるものだと、そういう事が言えようかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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