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正法眼蔵 仏性 43

迦那提婆尊者は、龍樹尊者が坐禅の形でその身体を示された事を指して、そこに集った沢山の人々に告げて言った。
  
これこそは、龍樹尊者が仏性を姿によって具現し、それを我々に示されたものである。何によってそれを知るかと言うと、いま龍樹尊者が示された何ものにも束縛されない姿の境涯は、昔から満月のように見えると言われているからである。仏性というものは、非常にハッキリしていて、言葉であれこれと説明する必要のない明々白々とした目の前の事実ということが言える。

迦那提婆尊者の言葉について道元禅師の注釈です。
一切の世界を含めてその中に行きわたっているところの、釈尊の教えを見たり聞いたりした時代を超えた様々の人々のうち誰がこの龍樹尊者や迦那提婆尊者のように、生身の体をありのままに現すことが仏性そのものであると明言し得たであろうか。

※西嶋先生解説   
普通、仏教を理解する場合には、何か非常に不思議なものがあって、普通の人間ではできないようなことがやれるようになることが仏性だ、というふうに理解しておる場合が非常に多いわけであります。ところが龍樹尊者や迦那提婆尊者のように、仏道の真実に触れた人々は、生身の体を現すことが仏性だとはっきり言いきっている。――

このような主張は、様々の世界を包み込んだところの宇宙の中においては、迦那提婆尊者だけがこの様に「我々の具体的な体そのものを現す事が仏性を現すことに他ならない」と言い切る事ができた。ところが、迦那提婆尊者以外の人々は、仏性は眼で見たり、耳で聞いたり、心で知るという事ができないところのものだというふうにばかり主張している。

※西嶋先生解説
これは普通の仏教というようなものを理解する場合の考え方。仏教というのは不思議なものであるから、普通の人間は中々見えない、長年坐禅をやっているとそのうち見えてくる、と言うふうな教え方をするわけでありますが、仏道の究極というものはそう言う事ではない。我々がごく普通に、手が二本、足が二本、首が一つ、目が二つ、鼻が一つの普通の体を現して日常生活をするという事が、仏性を示すという事に他ならない、という風にここで言っておられるわけであります。――




           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今まで曹洞宗のお寺のご住職などを訪ねてみますと、依然として見性という事をやかましく言うご住職がたくさんいらっしゃるんですけれども、先生は見性という事についてどうお考えでしょうか。

先生
私は信じません。で、ああいう迷信があるから、仏道が理解できなくなる。だけれどもああいうものがあるというふうに仮定すれば、説明は非常に楽なんです。いろんな質問に対して「いや、それは見性すればわかる」と言えば一言でけりがついちゃう。いろんな人が「こういうことはどうでしょか」「いや、それは見性すればわかる」という事で、全部済むという事は全部がわからないで終わりになっちゃうという事です。

「正法眼蔵」という本と他の仏教書とどこが違うかと言えば、そういう問題を克明に書いてある。だから本当に仏教思想を理解しようと思えば、今日の時代では、「正法眼蔵」を読んで理解するしかないという事です。「こんな難しい本をなんでやらなきやならないんだ」という疑問ももちろん出るけれども、この本を読まないと、そういう仏教問題がはっきりとつかめないわけです。だからそういう点では、いわゆる見性という風なことで「私は見性したけど、お前はまだだから、もっと一所懸命やれ」というような思想は、私は仏教思想ではないという見方です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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