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正法眼蔵 仏性 42

龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。

龍樹尊者の弟子を僭称している人々が、しばしば自分自身に関して言うことには自分たちも龍樹尊者の後継者である。様々な仏教の議論をし、様々な仏教の教義を集め、論議をするに当たって、自分たちも龍樹尊者の教えというものを使って論議を立てているというふうに主張している。

※西嶋先生解説
――なぜこういう事を言うかというと、龍樹尊者は思想的に広範囲に様々の本を残しておられるわけです。だから単に坐禅の教えだけでなしに、たとえば念仏のような教えという風なものも、龍樹尊者がその一番の出発点だという理解の仕方があるわけです。だから仏教の宗派のほとんどが、自分たちの宗派は龍樹尊者から出ていると言いう風な理解の仕方をしている。このことを道元禅師は指摘しておられるわけですで、自分たちも龍樹尊者の教えに従って自分たちの流派を立てたと言っておるけれども、それらの教えというものは、実際に龍樹尊者がつくられたものではない。――

かつて龍樹尊者から離れた沢山の人々が世の中を惑わし乱すというのが実情である。つまり、自分たちも龍樹尊者の教えを基にして自分たちの宗派を立てたと言っているけれども、実はそうではない。釈尊の弟子たる者は、ただひたすらに迦那提婆尊者が伝えておらないところは、龍樹尊者の教えではないというふうに知るべきである。

この様な理解の仕方というものが、正しい信仰であり真実を得た姿である。しかしながら、自分の師匠が正しい伝統のものではないという事を承知しておりながら、その後継者となって教えを引き継ぐ者が決して少なくない。このような人々の行いというものは、釈尊が説かれた偉大な正しい智慧を誹謗する愚かなありかたであって、気の毒にも思わなければならないし、また悲しい事でもある。

※西嶋先生解説  
こういうふうに、龍樹尊者のお話に関連して、仏性というものがどういうものかという事を説かれておるわけであります。そのことは、龍樹尊者のお話の中で円月相を示された、円い月の姿を示されてという風に伝えられておるけれども、それは単に龍樹尊者が坐禅の姿で自分の席に坐っておられたに過ぎない。それを円い月の姿を現したんだと、普通の人間にはできないような超能力を示されたのだという風に理解する考え方は間違いであるという事を言われておるわけであります。

このように仏教の理解の仕方、あるいは「正法眼蔵」の理解の仕方というものは、今日の立場から見ても納得のできる理解の仕方しかしておられない。普通、宗教というのは非常に神秘的なもので、普通の人間には見えない様なものが見える様になるのが宗教だ、と言うふうに理解する場合が多いけれども、仏道というのはそういうものではない。ごくあたりまえの、目の前の事実がしっかり見えると言う事が仏道のねらい、と言う事になるわけであります。
   
ところが普通は、我々はありもしないような沢山の夢を頭に持つて、その方が本当だと思っている。だから目先のものがよく見えないから、ものにつまずいたり、横道に入って行ってしまったりと言う事が割合多いわけです。そういう点では現実をしっかり見ると言う事が、仏道の教えと言う事にもなろうかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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