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正法眼蔵 仏性 41

龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。

龍樹尊者の弟子の中には、師匠の教えの奥深く入り込んで師匠の教えをすっかり受け継いだ者がたとえ沢山いたとしても、迦那提婆尊者と同じ程度に師匠の教えを身に付けた人はいなかったであろう。龍樹尊者が半分の席を迦那提婆尊者に譲ってもおかしくないほど優れた弟子であった。またそこに集まったすべての人々の指導者となるべき師匠であり、龍樹尊者が支配しておられた教団の一部を統率するだけの力量のあった人である。

迦那提婆尊者が龍樹尊者の教え、正法眼蔵(正しい釈尊の教えの眼目の所在)無上ノ大法(最高の偉大な教え)というものを正しく伝承しておられたという事は、霊鷲山において摩訶迦葉尊者が釈尊の教団における最上席の人であったのと似ている。

龍樹尊者は、仏教を信ずる以前には外道(仏教以外)の教えを信じておられた。ある時、仏教の正しさを知って仏教の教えに転向した。外道の立場にあった時代には弟子が多かったけれども「自分は考えが変わったから」と言って、それらの弟子と別れて仏道に入られたのである。龍樹尊者が仏道の真実を掴まれて以降は、ただ迦那提婆尊者だけを法を伝える正しい後継者として、正法眼蔵の所在を正しく伝承した。この様に龍樹尊者から迦那提婆尊者に教えが伝わったと言う事は、最高の釈尊の教えというものが一系に伝承された姿である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
龍樹尊者が坐禅をしている姿を、円月相(満月の輪の如し)と表現してございますね。これは坐禅の姿を文学的に表現しているばかりでなく、「円」というものは宇宙を形づくってるとかという意味を含めた表現でもあるんでございましょうか。

先生
普通はそういう風に表現されるんですね。道元禅師の解釈は、龍樹尊者はただ普通に坐っておられただけだという説明をしておられる。円月相を現じたという事は、お月さんのように円くなったという事じゃなくて、普通に坐っておられたことだと。普通は、お月さんのようにまん丸になって、見えなくなったんだという解釈が行われているわけですよね。だから龍樹尊者のこの場面の絵を描く場合に、坐っている席だけ描いて、○い円を描いて、何も姿を描かないというのが、昔から絵として残っているわけです。ところが道元禅師はそれはどうもおかしい、龍樹尊者はただ普通に坐っておられたんだという解釈をしておられる。

質問
ではここでは、単なる文学的な表現として受け取っておいてよろしいんでございましょうか。

先生
だから道元禅師はそういう考え方をされたわけね。一般に経典をどう理解するかってことは、道元禅師と同じような解釈だけではないわけですよね。つまり龍樹尊者の姿が消えてしまって、円い月のようなものだけがそこに出て来たんだという理解の仕方も昔からあるわけです。ところが道元禅師は、そういう仕方じゃなくて、龍樹尊者が坐禅の姿で坐っておられたに過ぎないんだという解釈です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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