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正法眼蔵 仏性 39

龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。

真実を得られた方々と同じ体を示しているという事は、さらに真実を得られた方々の体そのものを超越しまったことである。真実を得たとか得ないとかいう世界はとうに乗り越えて、それよりももっと実体に近いものに変わっている。その点では、仏性を得た人々が、円月相(満月のような姿)を示していて、言葉で表現はできないけれども、明々白々なものであって、円月相という人間とは違う姿をそこに持ってきたという事ではない。

我々の日常生活における働きというものは、耳に聞こえ、眼に見えるものだけではない。姿を現したと言ってみても肉体だけの問題ではない。様々な物質の集合で出来上がっている世界の問題だという事でもない。一見、物質的な集合の世界とよく似ているけれども、しかも何らかの姿を現しているのである。

別の言葉で言えば真実を得られた方々と同じ体を現しているのである。このような姿を現すという事は、姿を現すことそのものが法を説くことであり、真実を説くことであり、それは固定的な姿を持っているものではなく様々に変化し、様々の要素を具えた姿である。そして、固定的な姿のない状態が、さらに坐禅を通して何物にも拘束されない姿の状態に達した時に、それを称して身体の出現と言うのである。



              ―西嶋先生の話―

我々は、仏教とか、仏道とか、あるいは法とかというものを勉強しておるわけでありますが、こういう仏道とか法とかというものを勉強するに当たって、いくつか大事な問題があるわけであります。その問題の一つに全体と部分という問題もあるわけであります。この全体と部分との関係という問題は、人間がものを感じ、考え始めるようになって以来、ずうっと様々の人が考えてきた問題でありまして、西洋の哲学でも、ギリシャ・ロ-マ時代から全体と部分、あるいは全体と個人という風なものが論議の対象になってきたという事が歴史上の事実としてあるわけであります。

この問題を我々の日常生活に即して考えてみますと、例えば会社という風なもので問題を考えて、会社の経営は、その基本方針、経営方針というものがしっかりしておるかどうかという事、間違っていないという事、正しいという事が非常に大切であります。しかしそれと同時にそういう方針だけで企業がうまく成り立つかというと、そういうわけのものではない。企業活動の実態というものは、企業に所属する第一線の人々の仕事ぶりがどうかという問題も大きな問題としてあるわけであります。

第一線の人々が本当に愉快な気持ちで、一所懸命仕事と取り組んでいるかどうかという事が企業がうまくいくかいかないかという事と大きな関係があるわけでありまして、そういう点では企業の盛衰というものが、基本方針の正しさというものに関係あると同時に、また別の面から見ると、第一線の人々が愉快な気持ちで、張り切って働いているかどうかという事と、その両方に関係ある。

ところが世間の考え方は、一般には、その両方が同時に大事だという考え方でなしに、基本方針さえしっかりしていれば、会社経営は必ずうまくいくという考え方と、それから末端の人々がうまく働いていさえすれば、企業活動は必ずうまくいくという、この二つの考え方があって、世間では、ややもするとそのどっちかに偏るという事が一般の状態であります。ところが仏教の立場から見ますと、そのどっちかに重点を置く考え方というものは誤りだという見方があるわけであります。

                            つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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