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正法眼蔵 仏性 38

龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。

円月相(満月の姿)と言う言葉についても、これは希運禅師が「ここにあるのは一体何ものだ」と言う表現で示そうとした絶対の実在である。ある人は繊細と評し、ある人は粗大と評する。しかし、それらの表現を超越して皎々と輝く月の姿に他ならないのである。この坐禅によって示された姿、身体を坐禅の中に現すという事は、まず一ばん大切なことは、頭の中で考えられた自分がいかにうぬぼれているかという事に気がついてそれを除くことであるから、坐禅の形で体を現にあらわしているという事は、龍樹尊者そのものではなくて、すでに真実を得られたたくさんの方々と同じ体を示していることに他ならない。

そしてそのような方々と同じ体を示しているという事は、さらに真実を得られた方々の体そのものを超越してしまったことである。真実を得たとか得ないとかという世界はとうに乗り越えて、それよりももっと実体に近いものに変わっている。仏性は満月にたとえられる様な形を示す。仏性は言葉で表現は出来ないけれども、明々白々なものであって円月相というふうな、人間とは違う姿をそこに持ってきたという事ではない。

まして、我々の日常生活における働きというものは、単に耳に聞こえ、眼に見えるものだけではない。姿を現したと言ってみても、単に肉体だけの問題ではない。身体も含めて精神的なものも一切を含めて、人間として現れたという事に他ならない。その点では、物質世界における出来事でもないし、一見、物質的な集合の世界とよく似ているけれども、しかし何らかの姿を現しているのであり、別の言葉で言うならば、真実を得られた方々と同じ体を現していることである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
専門的な僧侶に就かれている方ですと、やっぱり私どもの生活からずれちゃうところがあるのかなあなんて言う、そんなことも感じたんですけれども、先生の著書「サラリ-マンのための坐禅入門」を読みますと、たいへんわかりやすいのは、どういう事かなあと・・・。

先生
その辺の問題になると、なかなか難しい問題があると思いますね。と言いますのは、仏教そのものが封建制社会を基礎にしてずうっと長く続いてきたことがあるわけですよ。それで明治維新以降、特に資本主義社会に変わってきたわけですよね。だから寺院の運営の仕方というのも、社会の経済事情に応じて変化しなきゃならんという問題があるんじゃないかと思います。そしてそのことは、仏教を追及する場合にも、月々給料をいただいて、しかも仏教を追及していくという生き方があるはずだという事でもあります。

だから私が本を書いたのは、そういうものの考え方が基礎にあるわけですよ。毎日の勤めがあっても、朝と晩は坐禅が出来るような時間の余裕ってものが、今日の資本主義社会では与えられてきているわけですよね。だからそういう時代にはそういう時代に即応した仏道の勉強の仕方があるはずだ、これから少なくとも出てくるはずだという想像もあって・・・。その本、「サラリ-マンのための坐禅入門」はまあ実業之日本社から頼まれたから書いたんだけれども、そういう本を書いてみたいと思っていた時に、たまたま頼まれたから書いてみたという事。

そういう点では、サラリ-マンというのは坐禅をやるのに非常に恵まれた環境だという事、これはあると思うんですよ。そういうことが盛んになってくれば、今までの仏教と違った 仏教が現実の問題として生まれてくるんじゃないか、そういうふうな予想もたたないことはないと、そういう問題があると思いますね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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