トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 37

龍樹尊者の説話について道元禅師の注釈は続きます。

我々は物の形を言う場合に、長い・短い・四角・円い等、様々な形容詞を使うけれども、そういう一切の形容詞がどういう意味を持っているかという点については、この龍樹尊者の示されたありのままの姿というものに学ぶべきである。体というものがよくわかり、現われるという事がよくわかっていないならば、龍樹尊者が円月相(丸い月と同じ様な欠けるける事のない円満な姿)と言われた言葉の意味はよくわからないだけでなく、自分自身が沢山の真実を得られた方々と同じ体にはまだ成っていなと言う事を示すのである。

愚かな人々が考えるには、龍樹尊者が一時的に人間の姿ではなくなり特別の姿を示した、その事を円月相を示されたと言ったのだと理解するけれども、この様な考え方は、釈尊の教えを受け継いで来なかった人々の誤った考え方である。我々の日常生活を考えてみても、どのような場所で、どのような瞬間において我々以外の体を示すことがあり得ようか。

はっきり承知しておかなければならないことは、龍樹尊者が円月相を示されたと言う事は、龍樹尊者ご自身が自分の席に普通に坐っていたに過ぎない。体を示したと言われたのは、今日の誰でもが坐禅をしている場合と同じ姿を示していたのである。この我々の身体そのものが、円月相を示すと言う事に他ならない。身体を示すと言う事は、丸いとか四角とかともいえない。、存在だとか不存在だという事も言えない。隠れているとも言えないし、現れているとも言えない。この世にある無数の物質と同じ性質のものともいえない。それはただ身体を示しているに過ぎない



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
最近、先生が発行されました「サラリ-マンのための坐禅入門」の中で、「サラリ-マンと言えども、資本主義社会の中で生きている限り、一定の資産を保有しなければ、平凡な社会生活の継続にも事欠くこととなりかねませんので、このような問題にしても現実的な配慮を怠らないことが、自主的なサラリ-マン生活を送る上での、最低限の基礎の一つかと存じます」と書かれておるんでございますが、このお考えは中国の「孟子」の言葉に「恒産ないものは恒心なし」という有名な言葉が残されておりますが、こういった考え方と同じなんでございましょうか。

先生
そういう風に言っても、そうかけ離れているとは言えないと思いますよ。という事は、人間はご飯を食べなきゃならないわけですからね。そういう問題を全部白紙にした立場で、人生問題を考えるべきではないという主張です。人間、とにかく食事をしなきゃならんのだし、家族があれば、家族を養っていかなきゃならんのだから、そういう現実の義務というものを全部無視したところで、人生問題を論議しても意味がないという考え方です。

質問
そうしますと、別のことわざに「衣食に奔走する」という言葉がございますね、そういうような状態ではいかんと言う事でございますか。

先生
その点では、それぞれの具体的な事情によって、という事ですからね。贅沢が必要だというようなことじゃないんですよね。ただそれと同時に、経済的な問題を全然無視したところで、家族が苦労したりするという風な状況は避けるべきだという考え方ですね。ところが、案外こういう考え方は少なくて、家族がそういういい思いをしているかどうかわからんけれども、とにかく遊ぶ方に金を使っちゃうという形だっていくらもあるわけですね。

だけれども、そういう風な考え方よりも、やはり自分自身の生活というものを、経済的な面からもよく考えた上で生きていくべきだと、そういう考え方ですね。こういう考え方は、あんまり人気が出ないんですよ。「経済的なんて、そういう小さいことを考えておっちゃいかん、もっと広大な気宇で生きなきゃならん」という風なことが、宗教を説く場合には、非常に多いわけです。「米塩の事なんか気にしているようじゃ、仏道はわからん」という方が多いわけだけどね。我々の人生問題には、やっぱり米塩というものも基礎にあるわけだから、そういうものを無視して問題を考えるべきではないという考え方ですよね。

質問
大変つまらないことをお聞きするんですけれど、実業之日本社から頼まれてこの本をお書きになったのは、どのくらいの期間ですか。

先生
それは二月に頼まれて、六月ごろ出来たと思います。だから原稿を書くのに四か月ぐらいかかったんじゃないかな。

質問
大変読みやすくて、こういう類の本にしては、今まで読んだ本の中で、これだけ読みやすい、こなれた文章というのは、ほんとに初めてというような感じで、たいへん感心しております。

先生
いや、それはどうもありがとうございます。(笑)


いつもご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-