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正法眼蔵 仏性 34

龍樹尊者の教えを聞いた人々は、その教えの優れていることを知り、最初の考え方を切り替えて仏道を勉強してみる気になった。

そこで、龍樹尊者は再び自分の席で坐禅をして自分自身の姿を現された。自由自在な境地を現されたその姿は、ちょうどまん丸になった月の姿と似ていた。そういう形で龍樹尊者が自由自在の境地に坐っていた時に、説法を聞いていた人々はあたかも龍樹尊者の姿がそこにはない様な印象を受けた。この説法を聞いていた人々の中に、長者の息子、迦那提婆がいた。

そこで迦那提婆言う:この龍樹尊者の示された姿というものが何であるか、お前方は知っているかどうか。

人々言う:いま我々が目の前に見ている龍樹尊者の姿は、目で見たことも、耳で聞いたことも、自分の心でそれを認識する事も、実体がどうなっているのかと言う事も、なかなか自分の身体ではつかみにくい。

迦那提婆言う:龍樹尊者は仏性を姿によって具現し、それを我々に示されたものである。龍樹尊者が坐禅の姿で坐っておられたということは、坐禅の姿を超越した形での境地である。この姿がちょうど満月の様に欠けるところがない円満な姿である。仏性とは一体どういうものかと言う事が龍樹尊者の坐っている姿の中では明々白々として現れて、言葉で言い表す事は難しいが疑問の余地のない非常にはっきりしたものである。


このように迦那提婆尊者が言い終わると、満月のような姿はたちまち隠れ、龍樹尊者の姿がまた元に戻って本来の場所に同じように坐っておられた。

龍樹尊者は、偈を説いて言われた。身体によって満月の姿を現し、それによって真実を得られた沢山の方々と同じような姿を示した。そして、その説法によって、あるいは満月のような姿を現じて坐っていた容姿によって示された働きは、耳によって聞こえるものとか、目によって見えるものとは別のものである。

※西嶋先生の解説
つまり、龍樹尊者は自分の席で坐禅を組んでジーッと坐っておられたわけでありますが、これを見る者の立場からすると、これといった具体的な姿が見えない様な境地である事を感じた。また龍樹尊者の坐っている姿を通して、目で見たり耳で聞いたりする以上の何かを受け取ったと。これが龍樹尊者に関連して説かれている経典の文章の引用であります。
   


          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
いまイスラム世界がだいぶ揺れてますけど、仏教から見たイスラム教というのはどういう考え方でしょうか。

先生
まあ、一般の宗教と同じようなものだと思いますね。だから仏教の立場から見ると、まあ普通の宗教だという表現ができると思います。この前の講義の時に、宗教と宗教でない考え方と仏教の関係をお話したわけですから、あるいは聞かれておるかもしれませんが、西洋流の宗教観から行くと、宗教というものがあると、これに対して反宗教というものがある。西洋流の文明というのは、この両方が戦って文化が発展してきたという事が言えるわけであります。

このことはどういうことかというと、非常に精神的なものを中心にして「こうしなければならん」「ああしなければならん」という考え方もあると同時に「いやあ、そんなこと言ったって甘い話だ。この世の中は物質だ」という考え方もある。西洋流の思想はこの二つの要素が両方あって、この二つの要素がお互いに戦う事によって西洋文明が発展してきたという事が言えると思います。

ただ仏教というのは、この両方(宗教と反宗教)のちょうど中間にあって、宗教的な立場も本当ではない、反宗教的な立場も本当ではない、もっと現実をよく見なさいという事を言われたわけです。イスラム教というようなのは、宗教に属するとみていいと思います。だからそのことは「自分たちのやってることは間違いない!」と思い込んで、いろいろと活躍し動いておるわけでありますけれども、傍から見つと果たして正しいかどうかという事にならざるを得ないわけです。

その点では、イスラム教という風なものが中心になって現実の国家の政治が行えるかどうかというと難しいという事が、ちょうどいまイランに出ておる実情によって知ることが出来ると思います。つまりイスラム教の教理というものを中心にして、今日の現代社会が統治できるかというと不可能だ。その結果として非常に不安定な要素が出て来たから、それを外国に対する攻撃に転化しておるという事が、今日のイランその他の国々で起きている騒乱の内容ではなかろうかと思うわけです。  (1979年11月)


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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