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正法眼蔵 仏性 33

龍樹尊者は魔訶迦葉尊者から数えて第十四代目の教団指導者で、梵語ではナガ-ルジュナといい西インドの人である。

龍樹尊者はかつて南インドに行った。南インドの多くの人々は、世俗的な日常生活における幸福を目的とした行為を正しいと信じていた。そこで、尊者はこの国の人々に対して釈尊の説かれた素晴らしい宇宙秩序の教えを説かれた。しかしこの尊者の教えを聞いた人々が互いに言う。

人々言う:人間は努力する事よって幸福が得られるという教えこそ、この世俗社会においては最高のものとされている。しかるに、尊者はあまり役にも立たない仏性というものをしきりに言われる。そんな仏性などと言うものをいったい誰が見ることが出来ましょうか。
龍樹尊者言う:お前方が仏性というものを現実に見たいと思うならば、まず第一に自分というものがあると錯覚して、その自分というものを大きく見せようとする考え方をやめる必要がある。

※西嶋先生解説

――我々はたいてい自分というものがあると思っている。なるべく自分が偉くなるように、人よりも上になるようにという風な考え方をほとんどすべての人がしておるわけであります。大体、家庭でそういうことを教えてくれるし、学校でもそういうことを教えてくれるし、社会でもそういうことを教えてくれるから、自分を一生懸命に磨き上げて、人よりも偉くなるように、人よりも金持ちになるように、人よりも力を持った人間になるようにと常々考えておる。そういう風に人よりも金ができた、人よりも偉くなったと感じていることが我慢。そういう考え方を取り除いたときに仏性というものが見えてくる。――

人々言う:仏性というものは、一体それは大きいものでしょうか、小さいものでしょうか。
龍樹尊者言う:仏性というものは、大きい小さいと限定できない。広くもなければ狭くもない。幸福もなければ応報もない。死滅もなければ生まれてくることもない。



              ―西嶋先生の話―
                           --つづき

道元禅師が「只管打坐」と言われたのは、単に仏教の一つの考え方として「只管打坐」ということを主張されたわけではない。「只管打坐」の立場を取らなければ、仏道そのものがありえない、仏教そのものがありえないと言うのが道元禅師のお立場と言う事になるわけです。だからそういう点では仏性とは何かと言うならば、坐禅をやっているときの実感というふうに単純に受け取って間違いない。

ところが坐禅の時、どうも中身がよくわからない、ただ何となく坐っているんだけれども、これが坐禅の中身というものかどうもわからんというのが実際の体験として、皆さんにもあるだろうし、私にもある。誰の坐禅でも中身は同じである。そう言う捉えどころのないのが現実であり法である。そう言う世界の中に我々は生きておるわけです。だから、そう言う捉えどころのないものをつかまえるためには、実際にその中に入ってジ-ッと坐っていなければならん、そう言う事になるわけであります。
 
普通の常識からいくと、ジ-ッと坐っているなんて、時間がもったいないと言うふうに感ずるわけだけれども、本当に我々が勉強しなければならないのは、そういう言葉では表現する事の出来ない現実そのもの。そう言う現実そのものをつかんだ立場からもう一度我々の生活を見直すと、今まで目に入らなかったものが目に入ってくるし、今まで本当に当てになるかどうかわからん沢山のものを、当てにして生きてきたんだなあと言う事にも気がつく。         

だから仏道というのは、本当に当てになるものだけを頼りにして、当てにならないものをどんどん削り落としていく考え方だ、と言う事にもなろうかと思うわけであります。そういう形で、どうしても最後に残るものが仏性というもの。それが、ここ何回かにわたってやっておるところの「正法眼蔵」仏性の巻の中心的な問題と言う事になろうかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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