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正法眼蔵 仏性 32

六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊が「最高で均衡のとれた正しい真実」というものを説かれた。この「最高で均衡のとれた正しい真実」というものは、仏性に他ならないのであるから、その仏性に他ならないところの「最高で均衡のとれた正しい真実」は無常そのものを説かれているのである。恒常的な変化をしないものではなくて、常に変転して動いていくものが釈尊の説かれた「最高で均衡のとれた正しい真実」である。

釈尊が亡くなったと言う事も、釈尊の亡くなったと言う事実を通して、我々の生涯、あるいは我々の住んでいる世界というものが、いかに無常(変転常ないもの)であるかという事を示しているのであり、その無常というものがまさに仏性である。

頭を使い、あるいは感覚を使って仏道を勉強していこうとしている二種類の人々が持っているところの狭い見方、また経典や論議を勉強して、仏教経典だけに関心を持っている人々は、この大鑑慧能禅師が言われた「無常(変転常ないもの)が仏性である」と言う言葉を聴いて、驚き、疑い、恐れを抱くであろう。これらの人々は、外道(仏教を信じない人々)の類であろう。



              ―西嶋先生の話―
                             --つづき

坐禅をやっている時は、自分自身と仏性が一体になっている時。自分の体が非常に健康な状態に立ち返った時。そして、自分がやろうと思ってやっているわけだから、実行力が発揮されている時と言う事にもなるわけであります。だから、自分と一体になるとか、あるいは実行力が発揮されていると言う風な事も、すべて坐禅の中に含まれていると言える。

だから仏性というものを現実に現したいと思うならば、坐禅をやるに限ると言う事になるわけであります。そこで道元禅師は只管打坐(ただひたすら坐る)坐禅さえやっておれば何の問題も起きないという事を言われた。これが道元禅師の基本的な考え方であり、また釈尊の基本的な考え方であリます。

ところが、今日坐禅は必ずしも盛んではない。仏教の勉強をする事を好む人は割合いる。仏教の本を読んで「なるほど、なるほど」と言って感心する。そういうことをやる人はいる。しかし「坐禅をやりなさい。毎日やりなさい」なんて言うと「いやあ、そのうち暇が出来たら・・・」と言う様な事で、坐禅そのものはあんまり好かれないと言うのが、実情であろうと思うわけであります。

しかし仏教の立場から見ると、坐禅そのものが仏道。だから坐禅を離れて仏道なんてものはありえない。坐禅を離れて仏教なんてものはありえない。だから坐禅をやらずに仏教書を何万冊読んでも、仏教とはまったく無関係と言っていい。なぜそう言う事を言うかというと、仏教というのは単なる思想ではない。仏教というのは、行動であり、体験であるわけです。だから、行動し、体験しなければ、仏教の立場というものは出て来ない。
                          
                           つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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