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正法眼蔵 仏性 29

六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

大鑑慧能禅師が言われた「人間には南の出身、北の出身といろいろあるが、仏性には南だの北だのというものはない」という言葉を、長い期間にわたって何回となくそれを拾い上げて検討してみるべきである。その動作そのものが力量の源となるであろう。大鑑慧能禅師の言われた言葉を、静かに取り上げて検討し、それを打ち捨てて、そういう問題から超越すると言う事をやるべきである。

愚かな人々が考えるには、人間の世界においては物質によってあるいは肉体によって束縛されているから、南とか北と言う区別が出てくるけれども、仏性というものは実体がなく、どこにでも存在するものであるから、南とか北と言う論議をする必要がないと言うふうに理解しているが、これは力量がまだ十分に具わっていない愚かな捉え方であろう。この様な誤った考え方を投げ捨てて、直接に仏道の真実と言うものを坐禅によって学ぶ必要がある。

※西嶋先生解説
――それではどういうふうな理解の仕方をすべきかと言うと、人間が肉体あるいは物質に束縛されていると言うふうなことが問題なのではなくて、仏性そのものが誰の体の中にも、どういう人の体の中にも具わっているものであるから、その点では、南の出身がどうこう、北の出身がどうこうと言う差別がないと言う事を言っておられるに過ぎないのであって、空気の様に仏性と言うものがどこにでもフワフワと存在しているんだというふうな理解の仕方ではないということを主張されているわけであります。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
講義を離れまして――先生はよく、人間は一番仏道に適した生き物であるとか、そういう条件に適した姿をしているとおっしゃいましたな。

先生
はい。

質問
これはほんとに仏道という考え方から言うならば、他の動物でも、植物でも、みんな坐禅をしているんじゃないかと思うんですが、その辺はどういうもんなんでしょう。

先生
ええ、そういうことは言えます。ただ人間がなぜ坐禅との関係が深いかというと、自分の意志で坐禅しようと思って坐禅できるのは人間だけですよね。草や木も、そりゃそのままで結構なんだけれども、人間はやらないという自由を持っておると同時に、坐禅をするという力量を持っているわけですね。自分の意志で坐禅をしようというふうに決断して坐禅し得るのは人間だけです。

質問
そういうのは人間のひとりよがり的な考え方じゃないでしょうか。たとえば「万物の霊長」なんていうのは、おこがましい言い方だと思うんですが、どうなんでしょうか。

先生
「霊長」という場合には、非常に頭が優れておるという意味なんですよね。その点ではまさに「万物の霊長」ですよ。脳細胞が人間ほど発達しているのはいないんだから。そのことは、人間は悪いことをする能力をたくさん持っているんで、悪いことをする能力もあれば、善いことをする能力も大きく持っている。これが「万物の霊長」たるゆえんですよ。だから霊長ということでえばっているわけにはいかない。どんな悪いこともできるという能力を持っているわけですよ。ただそういう悪いことをする能力を持っているという事は、悪いことをしない能力も持っているという事です。

だからそういう点では、人間は責任を大きく負わされているわけです。犬や猫はそう責任を負っていない。人のものを盗み食いしたって刑法に引っかかって刑務所に入るというようなことはない。ところが人間は悪いことをしようと思ってやれるから、その点で猿や犬と違う。悪いことをやろうと思ってやっているわけじゃないんだから。本能でやっちゃう。人間はそうじゃないんですよね。人間は「よーし、悪いことをやって大金儲けてやろう」というようなことを考えて、実際にやれるから。その点では「万物の霊長だ」と、こう言える。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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