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正法眼蔵 仏性 28

六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

四祖大医道信禅師と五祖大満弘忍禅師は問答の中で、無仏性と言う言葉を使われたけれども、迦葉仏や釈尊が言われた悉有仏性という言葉と全く意味内容は同じである。釈尊の言われた悉有仏性と言う言葉がどうして無仏性と同じものでない事があろう。この様に「悉有仏性」と言う釈尊の言葉があったればこそ、我々の本来の性質は、有るとか無いとかを超越していると言う意味での「無仏性」と言う言葉が、遠く大医道信禅師や大満弘忍禅師の周辺から聞こえて来ているのである。

大医道信禅師、大満弘忍禅師の後に出られた大鑑慧能禅師は真実を得た人である限り、無仏性という言葉を十分に検討して考えて見るべきである。有るとか、無いとかと言うつまらぬ人間の理性による論議は一応棚上げして、いったい仏性とはどういうものなのかというふうに問いかけをしてみる必要がある。仏性、仏性と言うけれども、仏としての性質とは一体どういうものかというふうに探求してみる必要がある。

今日の人々がこの「仏性」と言う言葉を聞いた場合に、仏性がどういうものかという問いかけをする事をせずに、仏性が我々に具わっているか、具わっていないかと言う論議だけをしきりにする。しかし、これは甚だ慌てた議論である。そういう点では様々なものに対して「ない」と言う言葉が使われているけれども、そういう場合の「ない」と言う言葉は、大医道信禅師、大満弘忍禅師の言われたところの「無仏性」と言う言葉の中における「無」というものを学ぶべきである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
中国の第六祖大鑑慧能禅師が「仏性には南だの北だのというものはない」と言われましたが、このお考えの中には、当時の階級制度に対する打破というようなお考えはないんでしょうか。

先生
いや、あります。これは中国の文化っていう面からしますと、南と北とうんと違うんです。そして北の方の人々が自分たちが文化の中心だというふうに思っていたとすると、「揚子江の南の連中に仏道なんかわかってたまるもんか」という考え方はおそらくあったろうと推察されるのです。

そういう点で「お前は何処から来た」と言われて、「五嶺の南から来た」と言ったら、「それじゃ、嶺南人には仏性はない」という言葉の中には、そういうふうな当時の南と北の中国における文化程度の違い、そういうものが含まれていると思います。

ただ大鑑慧能禅師は、仏道というものはそういうケチなものではない、中国がどんなに大きいといったって、南と北だってそう違うわけはない、という事も含めて「仏性には南だの北だのというものはない」と言われたわけでね。だから確かに、当時の人が常識的に考えておった南と北の文化程度の違いというものは、この言葉の中には入ってますね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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