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正法眼蔵 仏性 27

中国の第六祖大鑑慧能禅師が言われた。 

人間には南の出身、北の出身といろいろあるが、仏性には南だの北だのというものはない。

※西嶋先生解説
このことはどういうことかというと、南とか北と言ってみても、人間が勝手に決めた名前だ。その点では、下足の番号札と同じようなものだ。一番とつけようと、三番とつけようと、五番とつけようと大した変わりはない。だから、太陽の出る方が東で、太陽の沈む方が西だというふうな東とか西とかという名前を仮に人間がつけたまでで、このことがさらに東の方を向いて右手の方が南で左手の方が北だという風に仮に名付けられたに過ぎない。だからそういう点では、人間は言葉を使って「南だ、北だ」というけれども、本来我々の持っている性質、仏性というものは、南の人だから持っているとか、北の人だから持っていないとか、あるいは北の人だから持っている、南の人だから持っていないというふうな事ではない。

六祖大鑑慧能禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
大鑑慧能禅師が言われた言葉を取り上げて、その言葉が持っている意味を十分に考えてみる必要がある。南とか北とかという言葉についても真心を持って一所懸命考えてみる必要がある。そしてこの大鑑慧能禅師が言われた言葉には基本的な考え方と言うものがある。

ここで大鑑慧能禅師が言われている事は、別の言葉でいえば、人間は仏道修行をして仏になる事も有り得るけれども、仏性というものは、仏道修行がどうこうではなしに常に具わっている。仏性は仏になるとか、仏にならないとかと言う関係でのものではない。

この様な主張が大鑑慧能禅師の言葉の中には含まれているけれども、大鑑慧能禅師ご自身も、自分が言われた言葉の中にこういう意味が含まれていると言う事を、はたして知っておられたであろうかどうか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をしているその境地というのは、言葉で言えば「常」なんですか「無常」なんですか。

先生
「常に非ず、無常に非ず」という事だと思う。

質問
周りが瞬間的に変わっていきますね、それに応じて自分の心が瞬間的に変わっていくという場合には、これは言葉で言えば「常」だという・・・。

先生
いや、その変わっていくこと、いかに変わりやすいかという事を勉強するのも、坐禅の中身ですよ。「無念夢想」なんて言うことをよく言うけれども、あれは誤解であって、坐禅の中身ってのは、決して無念無想じゃないですよ。いかに我々はつまらんことを繰り返し繰り返し考えるもんかと。それも我々の中身そのものだから。それを実際に勉強するという事も、自分がどういうものであるという事がわかって来る一つのきっかけになるわけですよね。

だから坐禅の勉強の中には、そういうものも含まれているわけ。自分の気持ちっていうものはいかに変わりやすくて、いかにくだらんことしか考えていないという事も、坐禅をやらなければ、忙しくてそんなことは感じてはいられないわけですね。朝から晩まで忙しければ、自分の気持ちがどう動くかなんてことは、感ずるわけにいかない。

ところが、たまたま坐禅をする時間があって、坐禅というものをやっていると、自分の気持ちというものがいかにつまらんふうに動くかという事も、よくよくわかるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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