トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 26

第六祖大鑑慧能禅師と第五祖大満弘忍禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大満弘忍禅師は大鑑慧能禅師に対して言われる際に、五領南の人々は無仏性(仏性という名前を付けることさえもったいないような尊い性質)を具えていると言われたのである。仏教というものに出会い、釈尊の教えを聞く最初の段階において、なかなか機会に巡り合わず、また聞くことのできない教えというものは、衆生無仏性なり(生きとし生けるものは仏性という名前を付けることさえもったいないような尊い性質を具えている)という考え方である。

ある場合には高徳の僧侶に従い、ある場合には経典にしたがって仏道を勉強していく場合に、ありがたいと感じられる事は、「衆生無仏性」という思想である。「一切衆生無仏性」と言う考え方を、見たり、聞いたり、知ったりという場面において十分に味わっていない者は、仏性が一体どういうものかを、見たり・聞いたり・知ったりしていない人々である。

大満弘忍禅師は、大鑑慧能禅師が何とかして仏になりたいと考えていた時に、本当の意味で仏にしてやろうと思われて、他の事を言われずに、また他の手立てを使う事もなしに、ただ「五嶺の人々は、仏性と言う名前をつけることさえも、もったいない様な優れた性質を持っている」と言われたのである。

無仏性と言う言葉を聞く事は、それが仏になる事のきわめて直接的な道であるという事を知るべきである。仏性と言う名前にこだわることなく、ただ日常生活を一所懸命にやり坐禅を一所懸命にやる。その瞬間こそが「仏」になっている状態に他ならない。無仏性と言う言葉を、まだ見たり聞いたりした事がなく、またそれを口にした事がない者は、いまだ「仏」になっているとは言えないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「我々は真実をつかむ以前から仏性が具わっているという事ではない」という先ほどのところなんですが、坐禅さえすれば、坐禅することによって成仏して、それによって仏性が生じるような解釈になるのですが、そうしますと、坐禅をしない人は死ぬまで仏性ができないという事になるんですか。

先生
先ほどここに鐘がありましたけれど、たたかなければ永遠に音が出ないんですよ。鐘というのは鳴るはずのものだから、たたかなくても鳴るんだという事も現実ではないし、そうかといって鳴るはずだからと言って、鐘を壊してみて中身を分析してみても音は出てこない。撞木を持ってたたけば音が出てくる。だから仏性というものもそういうものだ。本来、音というものが鐘の中に入っているはずだというのも間違いだし、たたかなければ鳴らないんだから、音なんていうのは入っていないんだという事でもない。撞木を持ってコツンとやれば音が出てくる。我々の人生もそれと同じだ。やれば出てくる。やらなければ出てこない。そういう性質のものだというのが仏教的な捉え方ですよ。

質問
鐘をたたいているときは音は出てるわけですけど、それをまたたたかなくなったら出ないわけですね。そしたら坐禅を組めば仏性というのは出てくると言ったけれども、坐禅を組んでる時だけであって、それがまた組まない状態の時というのは、仏性は出ていないのかどうか。

先生
そこで、人間の性質というものが本来どうであるかという事が問題になるわけですね。それで坐禅をしておる時の方が人間の本来の姿なのか、やっていないときの方が本来の姿なのかという問題に関して、仏教では、坐禅をやっているときの状態が本来の姿だと。その状態をやめても、坐禅の時の状態は続くと。それでまた、何らかの拍子で本来の状態から外れてしまっても、また坐禅をやれば戻ってくる、そう言う考え方ですね。これが仏教に関する信仰ですよ。仏道の中における人間に対する信仰、あるいは坐禅に対する信仰ですよ。だから毎日坐ることを勧めるんです。

※私の独り言。
坐禅を始めたころは、中々坐禅に集中できず考えまい考えまいと思っても自分のしてきた嫌な行いが次から次と出て来て、坐禅をやめてしまいたいと思うこともありました。坐禅をしていると自分のやった恥ずかしい行いが身をもってわかるんです。そして16年間毎日坐ってきた今は「坐禅は安楽の法門なり」を身をもって感じています。道元禅師が現成公案の巻で「仏道をならうというは自己を習うなり。自己をならうというは自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。・・・・」と言われました。坐禅をすれば大丈夫になりますよ。


いつも訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


  
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-