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正法眼蔵 仏性 25

第六祖大鑑慧能禅師と第五祖大満弘忍禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

「一切衆生悉有仏性」と言う言葉を聞くと、我々には生まれながらに仏性と言う尊い性質が具わっていると理解しがちであるけれども、仏性に関する基本的な考え方というものは、我々が真実をつかむ以前から本来の性質として具わっていると言う事ではない。仏性というものは、人間が成仏(真実を得た人)になった時に同時に具わるものである。この基本的な考え方を、よくよく参究し努力してみなければならない。二十年、三十年という長い期間にわたって努力し学んでみるべきである。

仏性はやればすぐ出てくる、やらなければ出てこない。この基本的な考え方は、まだ仏になっていない境地の人々のわかるところではない。坐禅をした事のない人にはわかるはずのものではない。この前の問答で「衆生に仏性あり」とか、「衆生に仏性なし」とか、様々な論議が行なわれたけれども、その基本になる考え方は今述べたような考え方である。仏性も仏になったらすぐ具わるということに他ならない。そういう考え方が最も正しい仏教的な立場からの捉え方である。

この様に学ばない教えは、釈尊の説かれた教えではあるまい。釈尊の教えは、この様にきわめて具体的な考え方として今日まで受け取られてきたからこそ、釈尊以来ずっと続いて来たのであって、もしこの様な考え方が仏教に含まれていないならば、仏教(釈尊の教え)は今日まで続いて来なかったであろう。この、やればすぐ具わる、やらなければ具わらないという考え方が、仏教に関する基本的な考え方であって、この基本的な考え方を十分に理解しないならば、仏になると言う事が一体どういう事なのか理解できないと言う事であり、見たり聞いたりする事ができていないと言う事である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「仏性は人間が成仏した時に同時に具わるものである」と書いてあります。そうすると中々私ども成仏するなんてことはありませんね。

先生
いや、いや、坐禅をすればもう…。(笑)

質問
そうおっしゃいますけれども、二、三十年も工夫、勉学すべしと書いてあるじゃありませんか。(笑)

先生
だからその点では、坐禅をすれば仏になるんだけども、自分で自信をもって「私は仏だ」と気がつくまでには長い年月がかかると、こういう事ですよ。ここで言われているのは。だから各人仏なんだけれども、「よし、俺は大丈夫だ」というとこに気がつくまでには暇がかかるという事でもあるわけです。それで「いや、私はだめです、まだだめです」という事で、実際にもう仏であるのに一所懸命、遠慮して生きて行ってしまう場合が多いわけ、人間の場合はそう言う場合が多いですね。

質問
そうするとおかしいですね。成仏より先に仏性は具足しないんだっておっしゃいますでしょう、それだのに気がつかないって筈はないじゃないですか。仏性がないんでしょう。

先生
だから、あるとかないとかという事ではなしに、坐禅をすればすぐ出てくると、こういう事ですよ。そういう点では、坐禅をしない前から、本来人間は仏なんだという考え方は間違っている。仏道修行をしない前から、人間というものは仏性があるんだから、酒を飲んでも、女遊びをしても、とにかく仏性は失われないという考え方は間違いだと。

質問
そうすると、一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものは悉く仏性を具えている)という事はおかしいですね。仏性のない人もあるわけじゃないんですか。

先生
いや、どんな人でも坐禅をすれば出てくる、仏道修行をすれば出てくる。ところが「一切衆生悉有仏性」という言葉を聞くと、どんなことをやってても仏性があるんだから、まじめにやるよりは酒を飲んで遊んでいた方がいい、という考え方になるわけね。だけれども、そういう形で自分自身を捨てておけば、いつまでたっても自分自身と巡り合わないという事が釈尊の教えですよね。だから自分自身と巡り合った時から仏性が出てくる。そのことを成仏したらば出てくるんだと。成仏するという事は自分自身と巡り合うという事。自分自身をしっかりつかむという事です。自分自身をつかんだ時から仏になってしまう。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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