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正法眼蔵 仏性 24

中国における第六祖大鑑慧能禅師が、かつて黄梅山において第五祖大満弘忍禅師の弟子になった最初の時点で、大満弘忍禅師に質問された。

大満弘忍禅師問う:お前は何処からやってきたのか。大鑑慧能禅師答える:私は五嶺南の地方から来た者でございます。大満弘忍禅師問う:お前は一体何が目的でやってきたのか。大鑑慧能禅師答える:自分は仏になりたいと思います。大満弘忍禅師言う:五嶺南の出身者には仏性がない。いまさら仏になろうという努力がどうして必要であろうか。

第六祖大鑑慧能禅師と第五祖大満弘忍禅師との問答について道元禅師が注釈されます。
大満弘忍禅師が「五嶺南の出身者には仏性がない」と言われた言葉の意味は、五嶺南の人には仏性がないと言われたわけではない。五嶺南の人には仏性があると言われた訳でもない。五嶺南の人もまた、仏性と言う名前をつけるのさえもったいないほど素晴らしい性質をもっていると言う意味で「五嶺南の人は無仏性」と言われたのである。「どうして仏になろうとするのか」という言葉の意味は、すでに無仏性(仏性と言う名前をつけるのさえもったいない程の優れた性質)を具えているのである。なぜそのうえ仏になろうなどとするのかと言う意味である。

しかしながら、一般的に言って、この様な意味での仏性に関する基礎的な考え方をはっきりと知っている人々が過去には少ない。仏性に関する本当の理解の仕方というものは、経典だけを勉強して仏教を学ぼうとしている人々とか、論議だけを勉強して仏教を学ぼうとしている人々にはよく理解できるものではない。仏性というものの本当の意味は、仏教界の真実をつかんだ人々の系統にだけ伝承されて来たものである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
いかにすれば、仏祖の心と私の心が一緒になれるのでしょうか。やはりそれは坐禅とか、そういったものによってのみ・・・。

先生
そう。それはあせって努力しても到底できることではない。だからお釈迦さんの体の格好と同じ格好をする事が最大の決め手だ、という事が仏道の信仰です。坐禅をなぜするかといえば、足の恰好、手の恰好、体の背骨の恰好も全部お釈迦さんと同じ恰好にする。そうすると否でも応でもお釈迦様と同じ気持ちになる、とそういう考え方です。

質問
犠牲という事を仏道ではどう考えているんですか。

先生
犠牲と言う事は仏道ではあまり好まない。自分をなくす、自分を無理すると言う事はあまり現実にはないという考え方が強いです。世の中と言うのはそういう形に出来ていない。自分を減却して人のために生きると言う事が現実の生活の中で果たしてあるか、どうかという考え方が仏教の中にあります。

だから、自分のために一所懸命やっているようでも、人のためになっている事もあるし、人のために一所懸命になって、自分の事は全然顧みていない様でも長い目で見ると、自分のためになっていると言うのが現実のあり方だというのが仏教のとらえ方です。犠牲とは自分と他人を二つに分けて、自分を「O」にして、相手を「100」にするという考え方があります。しかし、そんな考え方があるかどうかという疑問は、仏教の思想の中にはありますね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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