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正法眼蔵 仏性 23

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで「無」と言う言葉が使われているけれども、その無と言う言葉が使われている個々の例は、「その個々のものがあるとか、ないとかという言葉で決めつける事のできない何かだ」という事を言っておられる事に他ならない。空という言葉、(あるとか、ないとかと言うふうに決めつけられないものという表現)が、本当の意味での無というものを表現する力を具えている。ここで言っている空という言葉の意味は「般若心経」の中で「色即是空」と使われた場合の「空」と同じではない。

「色即是空」の意味を常識的に考えれば、物質の世界というものは、あるとか、ないとか断定できないものだと言う事の表現として考えられているけれども、外界の物質的な世界とは、それを無理に「空」だと、あるとか、ないとかと断定できないと決めつけるわけでもないし、また、あるとか、ないとか断定できない何かというものの中から、それを分析して物質的な世界を持ち出して来たと言う事でもない。もっと現実に即して考えるならば、この世の中は、何とも表現できない何かであって、その何とも表現できない何かが、現に目の前にあるという意味での「空」であろう。

何とも断定する事の出来ない何かが目の前にあると言う意味での「空」という言葉は、別の言葉で言えば、この空間の中に一かけらの石ころがあると言う事に他ならない。抽象的に哲学的に高遠な論議が問題なのではなくて、きわめて具体的な、たった一つの石ころにさえ「空」という内容は十分に含まれている。この様な関係であるから、仏性があるとか、ないとかと言う論議が大医道信禅師と大満弘忍禅師との間で問答されたのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「空」という言葉と「無」という言葉が出てきますけれども、ニュアンスとしてはどういうふうに考え分けたらいいのか…。無に対して有があって、そういう意味で有無というような使われ方をするんですけれども、空に対するものは・・・。まあ言葉の事なんですけども・・・。

先生
やっぱりこれも四諦論的な四段階で考えていったらいいと思うんですよね。一番最初は有という主張ですよね。二番目に無という主張がある。三番目に空という思想がある。四番目に実(無)という思想がある。ここでは無という言葉を意味を違えて二度使ってるんです。空是空というのが無だという時には、四番目の無なんです。二番目にも無というのがある。単純な”ない”という字の無が出てくるわけです。ただ、限定できない現実そのもの、実体そのものというものも、ここでは無という言葉で表現しておられるわけですよね。だからここでは無という言葉が二つの意味に使われているというふうに見ていいと思うんですよね。

質問
恐れ入りますが、と、と、と、というのをもう一度教えていただきたいんですけれども・・・。

先生
ここで一番最初の考え方というのを具体的な例で考えてみますと、仏性というものに関連して、我々は本来、良心というものを持っている。あるいは理性というものを持っている。だから仏性というものがあるという考え方。理想主義的な考え方からすればこういう考え方をするわけです。だから人間の性は善だという考え方をするわけですね。これが一番目の「有」です。

ところが人間というのは動物の一種だ。肉の塊だ。血液が流れているに過ぎない。空気が出たり入ったりしているに過ぎないという事になると、仏性なんてものはないという考え方が、裏側の解釈として出てくるわけですよね。これが二番目の「無」です。

ところが人間というのはなかなか働き者で、毎日一所懸命働いている。そうすると、仏性があるともいえるし、ないともいえる。そうかといってあるというのはどうもおかしいような気がするし、ないというのはどうもおかしいような気がする。そういう状態をとらえて三番目の考え方「空」。どっちとも決めかねると。

ただこの三つの考え方(有・無・空)というのは、全部頭の中での解釈だ。一番最後の生き方というのは、せっせせっせ、朝から晩まで働いて、働き抜いてバタン、グ-で寝て、また次の朝起きて働いて、そういう形になれば「有」だとか「無」だとかと言う事はたいした問題ではない。実に素晴らしい存在じゃないか。仏性だとか何だとかそんなレッテルは要らないだと。仏性というレッテルが要らないほど素晴らしいものだという事。それが四番目の実(無仏性)。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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