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正法眼蔵 仏性 22

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大満弘忍禅師が大医道信禅師の言葉に答えて言うには「仏性というものは我々の言葉では中々捉えがたいものであるから、何もないというのである」と。この様な言葉から考えてくると、空(有とか無とかという言葉)では表現できない状態というものは、無という「ない」という言葉とは意味内容が違うという事をここではっきり言われている。

そして仏性というものは、あるとか、ないとかと一方的には決めつける事ができないものだと言う事を表現するために、具体的な半斤、八両(中国の重さの単位)とかという表現をせずに「無」と言う言葉が、仏性というものを表すには一番近いと言われたのである。

仏性があるとか、ないとか限定できないものだという事をいうために空という表現をすることをせず、またそれが我々に常に具わっているものだとは限らないと言う状態であるから、単純に「ない」と言う表現をすることをせずに、仏性はあると言う事も当たっているかどうかわからないし、ないという事も当たっているかどうかわからないから、そういう内容のすべてをこめて「無」と言ったのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―                
                                 --つづき

徳川時代と今日とどこが違うかと言えば、経済的に豊かになっている事です。その事が人間が自分の言いたい事を言える様になり、自分のやりたい事をやれる様になってきたと言う事です。江戸時代の人間の生き方というのは、各人が食うものを切り詰めてやっと生きていた。頭数が多くてしょうがないと言って、生まれた子供、赤ん坊を殺す事は江戸時代においてはきわめて普通の事だった。だからそういう点からは、かなりいい時代に来たと言う事です。それは経済活動が発達したと言う事にある。

それはなぜ出来たかと言えば、みんな一所懸命お金儲けをやったからと言う事になる。だからお金儲けというのは非常に大切な事です。ただそれと同時に、お金儲けが終わった後に人間が何をやるかと言う事がわかっていないと、お金を儲けただけで終わりになってしまう。終戦直後に農産物をヤミで売って儲け、お札を畳の上に積み上げて物差しで計って一尺になったと言って「尺祝い」をやっていたと言う話もある。これも非常に面白い話だけどもね。 ただお金を積んでどのくらいの高さになったかというだけしか、人間の楽しみがないという事になると、文化的水準はあまり高くないと言う事になる。

お金はあまり持っていなくても、色々な事で楽しめると言う事の方がはるかに豊かな生活、豊かな人間と言う事にもなりかねない。お金も大事だけれども、お金だけではないと言う事にもなろうかと思うわけです。だから、人に物をやる、ガツガツしないという事が人間の普通の状態です。その事は、経済生活がある程度の水準に上がってこないとなかなか期待できない事です。日本の国などは、まさにそういう時代に来ているわけです。相変わらず取った、取られたということで頑張っていたのでは、文化はいつまでもそんなものあるものかと言う事になりかねない。

過去の時代の悲惨さを考えると、我々はいかにいい時代に住んでいるかと言う事にはなると思いますよ。戦争前の日本の国情を振り返ってみれば、今日ほど豊かではない。かなり厳しい生活の中でギュウ、ギュウ言わされて生きてきたわけだから。その点では、恵まれた時代が来た時に、それを使いこなすだけの力が備わっているかどうかと言う事が大変問題なところです。札束を積んで喜んでいる様では、どんなに経済的に水準が上がっても人間的な生活にはいかないと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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