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正法眼蔵 仏性 21

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで、大医道信禅師が無仏性(仏性と言う名前をつけるのさえもったいないほど素晴らしい性質)と言われた事は、ほんのひと時のあいだ坐禅をやって、三昧の境地に入るということが無仏性と言う言葉の意味だと言う学び方もある。この様に考えてくると、仏性がしっかり発揮されている時を無仏性と言うのであろうか。仏性を得たいと思う気持ちを起こした時にすでに仏性が現れていると理解したらいいのであろうか。これらの事を質問すべきである。また主張すべきである。この様な問題に関連しては、戸外に立っている柱にも質問させるべきである。戸外の柱にも質問してみるべきである。自分自身の中にあると言われている仏性にも質問をさせてみるべきである。

※西嶋先生解説  
――質問とか答えというのは、普通は人間がやることに決まっているわけです。ところが仏教の立場では、人間の世界とその他の世界とにあまりけじめを認めない。だから、寺の戸外の柱にも質問させる事があるし、自分自身が戸外の柱に問いかけて質問する場合もある。――

以上述べた通りであるから、我々は無仏性(仏性と言う言葉でさえ表現出来ない素晴らしい性質を表現した言葉)と言う言葉について一所懸命勉強してみなければならない。そしてこの無仏性と言う言葉が大満弘忍禅師のもとでも見聞きされ、趙州従諗禅師にも行きわたり、潙山霊祐禅師ものもとでも取り上げられ様々の問答をし、また説法された。この無仏性という言葉につまづいてしまい、どう理解したらいいのかわからないと言う形でまごまごする事があってはならない。

この「無仏性」については様々な観点から考えてみる事ができるけれども、それが何を意味しているかと言うと一つの捉え方としては、言葉では表現できない何かだと言う捉え方がある。そしてそれが抽象的なものではなく、目の前にいるお前方自身であるという現実の時間があるし、この場所における具体的なものだという今の瞬間における捉え方もある。また「周」という俗世間の姓の事でもある。結局のところ何かと言えば、現在の瞬間にあると言う事に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
六波羅蜜という事がありますね。私はお布施というのはお寺にお金を持っていく事だと思っていました。「布施」について教えてください。

先生
正法眼蔵には「むさぼらざるなり」とあります。お坊さんであろうと普通の人であろうと「はい、どうぞ」と言うのが、人間の普通の気持ちのあり方ですよ。人に物をあげようというのは人間の普通の状態です。ところが、ちょっと世相がずれてくるとそうはいかない。人のものを取ってでも生きなくてはならないと言う考え方もある。非常にくだらん話だけれども、電車の中でよく見かける風景に席の取り合いがある。自分が坐ってしまうと膝を大いに広げて、なるべく他の人が坐れないようにと努力している様なところがある。それは今の時代の世相ですけどね。

人間の本当の気持ちと言うのは、そうではないですよ。すこしつめあって「もう一人どうぞ」と言うのが普通の人間のあり方。だから、そういう普通のあり方を「布施」というんです。「むさばらざるなり」とはそういう意味です。なぜそういう事が必要かと言うと、自分のため自分のためという事で、人の幸福が自分の喜びにならない様な状態というのは人間のあり方としては不幸な事。普通、世間ではよくそういう例がありますよね。人にいい事があると悔しくてしょうがない。

「隣の不幸は鴨の味」と言う言葉が封建時代にあった。隣の家に何か不幸があると、鴨の肉を食べたほどおいしいと言う。この言葉は非常に浅ましい話だけれども、実に人間の心理をうかがっておる。どうしてそういう考え方が封建時代に出来たかと言うと、とにかく生産力が低かったから。お互いが食うや食わずで死にもの狂いで頑張らないと生きていかれなかったと言うのがお米を中心にした時代。貨幣経済が進んで我々が普通の洋服を着て、物を食べるにはそう苦労しないですむようになった時代は非常にありがたい時代です。

そういう時代になって初めて人間の文化が発達する。だから「衣食足りて礼節を知る」と言う事は孔子様の時代から言われている。今日でも同じ事です。経済生活が発達した時に、人間がどうあるかという事が一つの基準になる。その時に「はい、どうぞ」と言って人様に差し上げるのが普通の人間のあり方。ところが「人にやったら、俺のがなくなる」という事でお互いに頑張って「俺の分だ、俺の分が取られた」と言って騒いでいるうちは「社会」も、あまり結構な社会ではない。「家庭」も、そう結構な家庭ではない。「国家」としても、そう結構な国家ではない。

お互いが気持ちのゆとりが出来て「ハイ、どうぞ」と人に差し上げるゆとりが出来るか出来ないかが、文化国家かどうかということの分かれ目です。そういう点では、日本の国は非常に恵まれた国でゆとりがあるほうです。世界には、とてもとても人様の事にかまっている暇がないと言う状況の国もある。そうすると、経済的な水準が上がるという事これはかなり大事な事です。だから、お金を持つと言う事は非常に大切な事です。
                         
                          つづく--


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コメント
580:「ハイ、どうぞ」 by せっせせっせ on 2016/09/16 at 00:38:11

「ハイ、どうぞ」ですね。
残念ながらまだ普段の生活でも自分の立場が優先、仕事でも他の従業員よりもお客様の要望よりも自分の仕事の処理が優先する時があり後悔する事があります。
時間に追われてゆとりのない時に起きます。
こんな時にはこれからは、「ハイ、どうぞ」。
無理して歯を食いしばって「ハイ、どうぞ」。
そうしているうちに本当の「ハイ、どうぞ」が出来るような気がします。
「ハイ、どうぞ」で自分自身が成長していきたいです。

581:Re: 「ハイ、どうぞ」 by 幽村芳春 on 2016/09/16 at 12:14:36

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

「ハイ、どうぞ」ですが、愛語・布施・利行・同事の「菩提薩捶四摂法」の巻に詳しく書いてあります。自分が充分に豊かで自分の思うことが自由自在にできるときに、その有り余るものを自分だけのものにしないで「ハイ、どうぞ」と行動できることだと思います。ですから無理して歯を食いしばって「ハイ、どうぞ」という必要はないと思います。お客さんにもわがままな人はいます、従業員にも不真面目な人はいます。まず自分のやることを優先していいんではないですか。もしよろしかったら「菩提薩捶四摂法」の巻を読むことを勧めます。

582:「菩提薩捶四摂法」 by せっせせっせ on 2016/09/16 at 22:37:50

ご返答ありがとうございます。
「自分が充分に豊かで自分の思うことが自由自在にできるときに、その有り余るものを自分だけのものにしないで『ハイ、どうぞ』と行動すること」が「ハイ、どうぞ」ですね。
自分のやるべきことをやった上で「ハイ、どうぞ」と言えるように行動して行きます。
「菩提薩捶四摂法」読みます。
ありがとうございます。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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