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正法眼蔵 仏性 20

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大医道信禅師は大満弘忍禅師に対して「お前には仏性はない」と言われた。この言葉の意味は「お前は無仏性という性格を持っている。仏だ、仏でないというふうな表現を乗り越えた本質的なものを持っている」と別の表現の仕方で言われたのである。ここで大医道信禅師言われた趣旨は、「お前は言葉では表現する事の出来ない、名前では呼べないところの誰かだと言う事さえ言えない人間であって、具体的にお前はどういう人間だというふうに限定できない程大きな内容を具えている」と言われたに他ならない。

お前がどういう性格を持っているかと言う事は、お前のあり方そのものに任せるけれども、それを突き詰めて論ずるならば、仏性というつまらない名前で呼ぶ事のできない非常に大きな性質のものであり、それを無仏性と述べたまでである。そこで大いに勉強してみなければならない。現在は一体どの様な時節であるから、大医道信禅師は大満弘忍禅師に対し「無仏性」と言われたのであろうか。大満弘忍禅師がもうすでに仏になるというその最初の段階に到達しているから無仏性と言われたのであろうか。

とうの昔に仏になっていたのであるけれども、さらにますます努力を積み重ねていくと言う段階であればこそ無仏性と呼ばれたのであろうか。仏と言う名前では表現できないほど偉大な性質を持っていると言われたのであろうか。常に様々なことに通達している事を七通、又は八達といわれるけれども、頭の中であれこれ考えて、せっかくの理解を全部ふさいでしまうと言う事があってはならない。また、頭の中で何とか理解したいと思って、あちこち手探りで見つけ回る事もするべきではない。



               ―西嶋先生の話―
  
正法眼蔵において説かれている「仏性」はそう特別なものではない。我々の本来の性質と言うものを仏性と理解されて、それが説かれていると言う事であります。だから、我々が45分間坐禅をしていて、何をやったかと言うと仏性が具体的に出て来ていたと見て差し支えないわけであります。そうしてみると、仏性は誰にも具わっていると言う事が言えるわけです。だから経典にも一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものは仏性を持っている)と言う考え方が出て来るのであります。人間は誰もが坐禅をすればすぐ仏になれるという考え方が出てくるわけです。だからその点では、誰もが仏性を持っていると言う事がいえるのであります。

だからこの「正法眼蔵」仏性の巻でも、有仏性(仏性あり)と言う事が出て来るわけであります。ただ、それと同時に、仏性とは本来我々が持っている性質であっで、特別にあると言わなくてもいい。あるか、ないか、そんな事よりも本来のものとして、我々自身がここにいるという考え方もできるわけです。そうすると「仏性があるんだ、仏性があるんだ」と言う事が現実として当たっているかどうか。あると言わなくてもいいんじゃないか、と言う問題もある。
  
そこで、無仏性(仏性なし)という理解の仕方も一方では正しい。この「仏性」の巻では、「仏性あり」とか「仏性なし」とかと言う事がしきりに出てくるわけですが、その「あり」と言う事が出てきたり「なし」と言う事が出てきたりと言う事は、我々の生きている現実そのものがそういう複雑な様相を呈していると言う事であって、それがたまたま仏性という問題についても語られているというに過ぎないわけであります。だから「あり」と言う事がどうも現実に引き比べてみると無理があって、特に「あり」というふうに言う事が出来るかと言う考え方もある。また「ない」と言う事がいいきれるかどうかと言う考え方もある。
  
そういう点では、我々の住んでいる現実そのものが一つのレッテルでは判定する事の出来ない、非常に立体的な性格のものだと。そのことがこの「仏性」の巻でも語られていると見ていいかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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