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正法眼蔵 仏性 19

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大医道信禅師の質問に対して大満弘忍禅師が「自分の姓は仏性というものであります」と言う返事をされた。この大満弘忍禅師の答えがどういう意味を持っているかというと、具体的な本質というものは仏性と呼ばれます、と言う意味に他ならないし、我々が持っている本質的なものは言葉ではなかなか説明できないから、仮に仏と言う名前を付けているに過ぎないのである。この具体的な本質と言うものが、単に言葉では表現できない何かと言われた時だけにつかまえ得るもの、理解できるものと言うわけにはいかない。

具体的な本質という表現を仮にされるものがあったとしても、それが具体的な本質的なものという言葉以上のもの、もっと本源的なもっと現実的なものと理解された時に、仏性というものが具体的に現れてくるのである。この様に考えてくると、具体的な本質と言うものは、言葉では表現できない何かであり、それを昔から仏と呼んでいるけれども、そういう仏という名前さえ超越したところのものであり、そういうものを乗り越えて具体的な現実として現れてくるのであって、しかも、それについては常に何らかの名前を便宜的につけて呼ばれている。

その様な形で便宜的につけられた名前がこの大満弘忍禅師の場合には周氏である。しかしながら、こういう仮の名前というものも父親から受け継いだものでもなければ、祖先から受け継いだものでもない。母親に似たものでもなければ、本人以外の人と同一のものでもない。各人は各人の名前でありそれに伴って独自の本質がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正法眼蔵」においては死後の世界はないと・・・。それなのに「天上の神々」とか出てくるのですが、この「天上の神々」とは具体的にはどういう風な・・・。

先生
これはですね、仏教が生まれる以前に天上界があって神々がおられるという信仰があったわけです。それに対する仏教の態度というものは、そういうものはでたらめだという形で子供っぽい否定はされなかったと言う問題があるわけです。つまり過去において民衆が信仰していた神々というものを、全部仏教の守護神として仏教の中に取り入れるという事が行われたわけです。

ですから四天王であるとか、帝釈天であるとか、ああいう神々は全部仏教が生まれる以前から古代インドにおいて信じられていた神々であるわけです。で、そういうものを仏教信仰の守護神としてそのまま残された。ではその天上界の神々というものをどういう風に理解したらいいのかという事になるわけですが、そういう神々というものは人間の頭で考える事ができる、とこういう事実があるわけです。ですから実在する、実在しないという問題よりも、人間がそういう問題を考えた場合には神という存在も生まれてくるのであって、そういうものをあえて否定する必要 はないというのが、そういう神々に対する仏教の基本的な立場だと見ていいと思います。
   
ですからその点では、そういうものは存在しないという風にむきになって否定する必要もないし、そうかといって、そういうものは実在するんだから、それさえ頼りにしていれば人間は誰でも幸福になれるという考え方をするほど、そういう神々を重要視していないというのが仏教の立場だとみていいと思います。ですからそういう点で、天上の神々というふうなものを考えたり、それから神々ではないけれども、人間の頭の中で例えば龍など様々な生物も想像できるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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