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正法眼蔵 仏性 17

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師が注釈されます。

これらの祖師方の言われた事を考えてみるに、大医道信禅師が大満弘忍禅師に対して「お前の姓は一体何か」と問いかけをしたことについては、その狙いとするところである。昔の仏教の指導者がお互いに問答を交わした場合には「姓は何というか」と言う問いかけの他に「どこの国の人か」と言う問いかけで仏教に関する問答を行った例もある。ここでの趣旨とするところは「おまえの姓はこれこれと言うふうに断定する事のできない何かである」と言う形で、各人の持っている本来の性質と言うものを説いた事に他ならない。

したがって、これらの問答において「お前の姓は一体何か」と問いかけた事は、別の見方からすれば「おまえの性質はこれこれと言う言葉では説明する事の出来ない何かである」と言う教えを与えた事である。またその事は、南嶽懐譲禅師と大鑑慧能禅師との間で「自分も汚れなしと言うことを目標にしているし、お前も汚れなしと言うことを目標にしている」と交わされた問答と同じ様な意味を持っている。

大満弘忍禅師が「自分には姓があります。しかしこの姓は普通の姓ではありません」と返事をした。ここで大満弘忍禅師が言われていることの意味は「存在とまったく一つになった姓は普通の姓ではない」と言っておられるのである。普通の姓、ごくあたりまえの誰でもが口にする姓はあることはあるけれども、それは仮の名前であって人間の本質を具体的に指摘しているものではない。つまりある事はあるけれども、それが本質をとらえた名前ではない。

※西嶋先生解説
――沢木老師がよく人の名前の事を下足札の番号と言われた。名前というものはどういう本質かと言えば、下足札の番号だという。最近は銭湯に行く人が減ってきたから、あまり経験がないと思うけれども、昔は銭湯に行くと下駄箱があって、そこに下駄を入れる大きな木の札をくれた。木の札には番号が書いてある。だからそれが五番であろうと、六番であろうと、十番であろうと、、十八番であろうとそう大した意味はない。十番には絶対の意味があるけれども十五番には大した意味がないとか、十五番はいい番号だけれども二十番はだめだとか、そんなことはない。どの番号を持っても、たまたまその番号のところに下駄を入れたというだけの事。

人間の名前というものもそういうもので、何のたれべえという風な名前はそう大した問題ではない。しかしながら、誰でもが持っておる共通の性質というものは、誰それが何と呼ばれるかというようなことと重要さが違う。どう呼ばれるかという事と、どういう性質を持っておるかという事とは重要さが違う、という事がここで説かれておることの意味であります。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
忘れると言う事は、本当に理解する事と同じ意味なんですか。
 
先生
ええ。だから日常生活でも「意識する」と言う言葉がある。意識するとぎこちなくなる。気がつかないうちは非常に自由にふるまえるんだけれども、偉い人の前に坐ると、この方は偉い人だと感じるとどうもビクビクしてしまう。素直に口が動かなくなると言う事。だから意識しない事が人間が案外素直に動けるという事と関係があるわけです。忘れるというのは、今日の言葉でいえば「意識しない」と言う言葉の意味でもある。

質問          
自然になるという事ですか。

先生
そう、そう。だから意識して頭でしっかり覚えていることだけが人間の一番いい状態かという事についての疑問が、仏教哲学にはあるんですよ。意識しなくなった時に一番いい行動がとれ、一番いい解決策が出てくるんじゃないかという考え方もあるわけですよね。そういう意味です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
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師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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