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坐禅と仏

チーンと鐘の音が聞こえ坐禅が始まる。
坐禅を始めれば仏の世界にはいっていく。
坐禅をしている状態・行いの世界がそこにはある。
仏の世界である(仏の世界は行いの世界である)
仏の世界は生きとし生けるもの全てに必ず有るもので、坐禅をすればすぐに現れる。

坐禅をする事は、毎日家庭風呂に入るようなものだ。
坐禅をしない事は、一人一人に風呂が有るのにそれを使わない事と同じだ。
仏の世界は遠くの秘湯ではない。
しかし、多くの人が遠くの秘湯を有難がって大変な思いをして出かけている。
そして遠くの秘湯ゆえにめったに入れないから、いつもうす汚れている。
毎日自分の家庭風呂を使えばいつも綺麗で気持ちよくいられるのに。
風呂に入っているときは全てのものが仏である

チーンと鐘の音が聞こえ坐禅が終わる。
仏の世界から帰ってくる。
まるで風呂から上がってきたようだ。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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