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正法眼蔵 仏性 13

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

ここではっきり知っておかなければならないことは、「時間におけるこの世のあらゆるものをよくよく観察してみるべきである」と言う言葉の意味は、我々が与えられている二十四時間のうちの一瞬と言えども無駄に過ごさない事に尽きる。時期が来たならば仏性が現れるだろうと言う考え方をしているならば、何時までたっても仏性は到来しない。我々が現在の瞬間において生きていると言う事は、その現在の瞬間において常に仏性が現前として存在している事に他ならない。

その点においては、色々と問題を考えてみるまでもなく、現に目の前に仏性が厳然と存在していて、その理論を考えてみる余地がないほど明々白々とした事実である。この様に考えてくると、現在の瞬間が到来していない時期はどこにもあり得ない。常に現在の瞬間というものは我々の目の前にあって、それ以外に我々の生きる人生というものはない。そして現在の瞬間が目の前にあるのであるから、仏性もまさに我々の目の前に厳然として存在していて、我々はそれから逃げ出す事はできない。

※西嶋先生解説
このように道元禅師は仏性というものを架空のものとして、仏道修行の結果そのうちに到来するものだという考え方をされないで、我々の日常生活において常に存在するもの、逃げようとしても逃げることのできないものが仏性だ、という解釈の仕方をしておられるわけであります。



           ―西嶋先生にある人が質問した―
  
質問
言葉の使い方をお聞きしたいと思うのですが、仏道というものは学ぶものであって、仏教というものは信ずるものでありましょうか。

先生
そう。といわれた場合には実践的な意味が強いですね。それから、という場合には頭で考えるという意味が強い。

質問
先生は両方をお使いになりますか。
  
先生
ええ、両方使います。

質問
仏教を勉強すると言う事はどういう事なんですか。

先生
仏教を勉強すると言うのは、仏教の理論を勉強すると言う事で、仏教の哲学を勉強すると言う事です。

質問
その場合は、仏道を勉強すると言いかえてもいいわけですね。

先生
ええ。ただ仏道と言う場合には実践的な意味が強いから、日常生活において仏道を勉強するとか、あるいは坐禅をして仏道を勉強するとか、道と言う場合には実践的な意味が強い。多少そういう違いがあると思います。


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576:現在の瞬間 by せっせせっせ on 2016/09/06 at 23:32:35

「常に現在の瞬間というものは我々の目の前にあって、それ以外に我々の生きる人生というものはない。」
「我々が与えられている二十四時間のうちの一瞬といえども無駄に過ごさない」
まさに今を真剣に一秒たりとも無駄にしないで生きる、ですね。

577:Re: 現在の瞬間 by 幽村芳春 on 2016/09/07 at 15:32:10

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

坐禅を始めてからは、無駄な時間を過ごしてしまったと後悔することがなくなりました。
西嶋先生は「幾つになっても人間は自分の事は自分でやる義務がある。そして人にお世話になるようになったら、”ありがとう”しかないんだよ」と言っていました。先生は奥さんが亡くなられても、そして90才を過ぎてもご飯もご自分で作らでれ生活の全てをご自分で実践されていました。まさに今を真剣に一秒たりとも無駄にしないで生きる生き方を先生は実践しておられました。これからも先生の真似をしていきたいと思います。









プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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