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正法眼蔵 仏性 9

「仏性」について道元禅師の注釈は続きます。

仮にこのように、仏性は草や木の種のようなもので、だんだんに大きくなるという考え方をしたとしても、その種や花の実は何かと言えば、それらはいずれも、我々の日常生活における瞬間瞬間の赤心(真心)であり、赤心に基づいた行動である。それ以外にありえないというふうに学ぶべきである。

果実の中には種があり、その種の中に根や茎が見えるわけではないけれども、種から根や茎などが成長する。そして外側から物質を累加するわけではないが、ある程度の枝となり大きな幹になっている事実は、草木の内側とか外側とかといった論議を超えており、この我々が住んでいる世界の永遠の時間の中で、現に目の前に存在していると言う事を疑うわけにはいかない。

この様に考えて来ると、凡夫(まだ仏道の真実を得ていない人々)が、様々な考え方をし様々な理解をする事は、それぞれの人に一切任せておくけれども、この我々の住んでいる世界における根とか茎とか枝とか葉とかに当たるところの様々の部分というものが、一斉に時を同じくして生まれ、一斉に時を同じくして消滅していく。しかも、この世の中の一切のものが一つの性質、すなわち仏性に貫かれているという事を否定するわけにはいかない。

※西嶋先生解説
――ここでは、最初の部分で、心というものを中心にしてこの世の中を理解していくという考え方を否定されたうえで、そうかといって、この我々の住んでいる世界というものは、言葉であれこれと説明するわけにはいかない。しかも仏性という言葉では表現することのできない何かによって満たされておると、こういうことを言われているわけであります。――



            ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お釈迦様が「一切衆生悉有仏性」とおっしゃったんですね。それをお悟りになるのに六年間かかったんでございましょう。そうすると、お釈迦様はあんな偉い方だから初めから仏性というものを持ってらしたはずですわね。それなのにどうして六年も苦しんだんでしょう。

先生
お釈迦様は三十五年かかったと思うね。「オギャ-」と生まれてからその問題はあったと思う。これはどの人間でも同じですよ。人間は生まれた時からその疑問を持って、そしてお釈迦さんが三十五才の時に何に気づいたかというと、自分というものは仏性だと言う事に気がついた。持ってるという事じゃなくてね。ということは「自分は自分だ」と言う事に気がついたという事でもあるかもしれない。あるいは「自分は人間だ」と言う事に気がついたという事でもあるかもしれない。「自分は動物だ」と言う事に気がついたという事であるかもしれない。あるいは「自分には手が二本ある、足が二本ある」と言う事に気がついたという事なのかもしれない。

だから、ありのままの実体というものを把まれたのが三十五才の時だった。そういう実体を把むと言う事が人間を幸福にする唯一の道だと言う事を悟られて、その生き方を人に伝えようとされたのが、釈尊のその後の生涯だったと、そういうふうに見ていいと思うんですよね。だから仏道で何を勉強するかといえば、現実を勉強するわけです。実体がどうなっているかと言う事を勉強するわけです。そういう教えというのは西洋哲学にはない。そういう点では、仏教と言う考え方は西洋哲学から見ると非常に不思議な考え方で、想像もつかないような考え方だと言う面がありますけどね。

ただ、人間が一番幸福になるにはどうしたらいいかと言えば、やっぱり一番手近な現実をしっかり見つめるという事だ、というのが釈尊の教えです。ところが人間はどうも頭で色々と考えて悩むから、そういう悩みは捨てた方がいいと。その次に、今度は色んな感覚的ないい思いをすると、いや、それをもう一度、もう一度と言うふうな執着が生まれるけれども、それも乗り越えなきゃならん。そういう二つのものを乗り越えると、現在の自分というもの、あるいは自分を取り巻く環境というものがしっかり把めるから、その様にしっかり現在を把んだ形で生きていけば、一番間違いのない一番幸福な生涯が送れるという考え方ですよね。その事に気づかれたのを、別の言葉で言えば「一切衆生悉有仏性」というふうに経典では説いておるわけですよね。
     

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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