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正法眼蔵 仏性 8

仏性について道元禅師の注釈は続きます。

この世の一切というものは、個々バラバラに分かれている単なる物質の集積ではない。またこの世の一切というものは、心というものを中心にしてまとめられたところのたった一つのものでもない。この我々の住んでいる世界とは、一体何かと言えば拳を振り上げるというふうな、日常の具体的な行動に現れるところの現実そのものであるから、それが大きいとか小さいとかというふうに表現するわけにはいかない。

そのような意味で仏性と言われているのであるから、その仏性というものは、仏教界において真実を得られた人々と同じだというふうに、二つのものを並べて同じだという考え方をすることはできないし、言葉の上での仏性というものと、現実の実体としての仏性というものとを同じだというふうに理解するわけにはいかない。

ある一派の人々が考えるには仏性というものは草や木の種のようなものである。この宇宙の様々の恵みがその種の上にふりかかり潤される時に、芽が出、茎が成長し、枝葉が茂り、花をつけ、実を結び、さらにその結実した果実が新しい種子を含んでいる。この様に仏性も少しずつ法(宇宙秩序)の潤いを受けて発展するものだというふうに考える。しかしながら、このように考え、このように理解することはまだ凡夫(真実を得ていない人々)の感情にひかされた考え方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「八正道」の正語と言うのは、黙っている事だと。これは先生の解釈なんですね。

先生
いや、これは沢木老師もよく言っておられましたよ。釈尊が説かれた教えというものの一つとして、「八正道」ということが説かれておるわけで、その「八正道」というのはどういうことかというと、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正念、この八つをいうわけ。

大体の言葉の意味を言うと正見というのは、正しいものの考え方・見方。正思惟というのは、考え方・見方ではなしに、考えそのもの。具体的な例を挙げれば(1+1=2)というふうなのが正思惟という事である。立場がどうのこうのというのは正見の問題。立場が正しいか正しくないかということと、ものを考える手順が正しいか正しくないかということと二つの問題があって、考えの方が正見、考えそのものの方が正思惟。それから正語というのは、正しい言葉。正業というのは正しい行い。正命というのは正しい生活。正精進というのは、正しい努力。正定というのは、体が正しく安定していること。正念というのは、心が正しく落ち着いていること。こういう八つに分けて仏道というものを説かれた。

先日の講義のときの質問で、この「正語というのは、坐禅に関連して言えばどういうことになるのか」という質問に対して、「坐禅の時は結局何もいわない。何も言わないという事が、言葉のうちの一番正しいあり方だ」という事を言ったわけでありますが、そのことに関連する質問という事になるわけですね。

質問
これは坐禅の場合に限りますんですか。

先生
いや、そんなことないです。人間はものを言うよりも、黙っている方が一番正しいことなんです。

質問
先生、これを英語で訳される場合、ノ-・ワ-ド(no word)ですね。

先生
いや、だからこれは言葉通りには「正しい言葉」という表現で、言葉そのものは差し支えないんですよ。ただ坐禅との関連で、中身はどうかという事になれば、何も言わないことが一番正しい言葉だと、そういう解釈になるわけですな。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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