トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 7

仏性について道元禅師の注釈は続きます。

しばしば起こりがちなことであるけれども、昔の長年の修行を重ねた先輩方が、ある場合にはインドへ行き仏道を理解して、あらゆる人々を教化指導した例は、漢の時代から宋の時代に至るまで稲、竹、葦の数と同じくらい無数にあるけれども、それらの仏教界の諸先輩方の多くは単に物質的なものが動いた事を目して、人間の心理作用、頭の中で動く動きを仏性によって物事を捉えた状態だと考えている事は非常に哀れな話である。仏道の真実を学ぶという点で、はなはな愚かであるからその様な誤りが起きているのである。

しかし、現在釈尊の教えを学んでいるところの、後輩や初心者はこの様に考えてはならない。いま仮に把握とか認識とかというものを学んだとしても、その把握なり認識なりは単に物質的に何かが動くという事だけではない。物質的なものが何か動く、心の中で何かの映像が映ると言う事だけを勉強したとしても、それらの映像の動きというものが「言葉では表現の出来ない何か」と同じものだと考えてはならない。

もし仮に人が物質の動揺というものを本当に理解することがあるならば、その人は本当の認識、本当の把握というものをも理解するに違いない。「仏」という言葉と「性」本質という言葉とは、「仏」に対する理解が進むと「性」に関する理解も進むという問題であって、「仏」と「性」を二つに分けて個々に論ずるべきものではない。仏性というのは、いつの場合にもこの世の一切である。この世の一切とは、「仏性」に他ならないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「狗子仏性」といって、犬には仏性があるかないかっていう公案がございますね。あそこで言っている仏性と、それからここで今日お習いした仏性と、意味が違っているように思いますけれど・・・。あの仏性は人間の持っている性質、つまり判断力だの、そういうようなものが仏性だという事で、そうすると犬はだめだっていうことになりませんか。

先生
その点では、「仏性」という言葉をどう理解するかという事が問題になるわけであって、今日のところでも出てきたように、人間のものを考える力が仏性だという風な誤った見方をしておる場合もあるという事を道元禅師ご自身が言っておられるわけですから。そうすると、「狗子に仏性有りや否や」という風な問題についても、仏性をどう理解するかによっていろんな解釈が出てくる。道元禅師はその問題についても、自分はこう考えるという事が、この後の方に出てくる。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-