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正法眼蔵 仏性 3

釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師の注釈は続きます。

ここではっきり知っておかなければならないことは、真実そのものの性質によって保たれているところのこの現実の世界は、あるとかないとかという頭の中で考えられた存在ではなくて絶対の存在である。したがって、この世の中の一切という言葉は釈尊の教えを基礎とした言葉であり、釈尊ご自身が述べられたところであり、釈尊がものを見られたその真髄であり、この現に生きている自分自身の鼻(息)に象徴される生命に他ならない。

またここで一切の存在という言葉が出てきたけれども、その言葉の意味は、存在がいま始まったという考え方でのこの世の中と言う意味ではない。この世の中は永遠の過去から本来存在したものだという意味でのこの世界でもない。言葉では表現することの出来ない何かだと言う表現を使ってみても、それでもまだ言葉の問題であるから、それが我々の住んでいる世界の実体そのものを表していると言うわけにはいかない。まして、何らかの環境があって、そこから生まれてきた存在、そこから生まれてきた世界だと考える事もできないし、何の原因もなしに、何の環境もなしに、ただここに存在するという捉え方も出来ない。そしてまた心(主観)とか環境(客観)とか、そういう二つのものに分かれた考え方とは関係ないし、中身と外見という二つに分かれた考え方で捉えられるものでもない。

この様に考えて来ると、この世の中の生きとし生けるものがその内容をなしていることの一切の存在における主観も客観も、一切のものが何らかの行動によって蓄積されて生まれてきた力だと言うものでもないし、何の原因もなしに、突然この世に現れて来たと言う形のものでもない。宇宙のありのままの姿だという表現も当たらないし、仏道修行して得られる非常に神秘的な能力というものでもないければ、それらに基づく日常の実践活動というものだけでもない。



              ―西嶋先生の話―

よく仏教を勉強しているとか、坐禅をしているとかという人の場合に、仏教を勉強したり坐禅をしたりするのは偉くなるためにやるという考え方の人が割合多い。偉い偉くないとかいってみても、社会的にどうこうと言う事ではないけれども、とにかく人間として偉くなるためにやるという考え方が割合あるわけですが、仏道修行とか坐禅とかというものは、偉くなるためにやるのではないと言う事があろうかと思います。

それはどういうことかというと、偉いとか偉くないとかといってみても、そう大した問題ではない。偉いという場合に、大抵の人が自分で偉いと思っている場合が多い。心理学の言葉で優越感という言葉がある。偉いといってみても、優越感をもっておると言う事がかなり事実としては大きいわけです。その反面、劣等感という言葉もある。劣等感というのは、自分はだめだ、だめだと思っている。人間の気持ちというものを考えてみると、ある点では非常に自信を持って自分は偉い偉いと思っている。ところが他の場面になると、自分はどうもだめだ、だめだと思っている。

だから、偉いと思っている部分とだめだと思っている部分とが混ざり合っている場合が割合多い。偉い、偉くないといってみても、自分が偉いと思っているに過ぎない場合が多い。優越感を持っている人は、人に比べて自分の方がましだと思っている。その点では、人と応対しても相手を小馬鹿にしたり、相手の劣っている所をすぐ笑ってみたりと言うような性格の人もいる。そういう人は、人にちょっとでも負けると非常に悔しがる。もういてもたってもいられないほど悔しがるという人がいるわけです。

その反面、そういう問題は全然問題にしないで、自分はだめだ、だめだとばかり思っている人がいる。そういう人は、人は非常にいいわけだけれども、その代わり多少だらしがない。だから世間の人と付き合っておっても、割合他の人に迷惑をかけるという場面もままあるわけであります。ところが仏道はそういう優越感を洗い落とす。あるいは劣等感を洗い落とすと言う事がねらいと言う事になるわけであります。だから仏道修行をし坐禅をやるという事は偉くなるという事ではない。そうかといってだめになることでもない。本来の自分を把むという事が仏道修行、坐禅をやる事のねらいと言う事になるわけです。 

ですから、臨済禅師は仏道のねらいというものを「無位の真人」と言う言葉であらわす。無位というのは位がないと言う事。偉くもない、だめでもないところの本当の人間と言うものが仏道のねらいだと、そう言うところから「無位の真人」という事を言われた。そういう点では、仏道修行は偉くなるためのものではない。それと同時にもちろんだめになるための修行でもない。本来の自分自身を取り返すというのが仏道修行のねらいだと、そういう事になろうかと思うわけであります。  
   

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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