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正法眼蔵 仏性 2

「仏性」の巻、本文に入ります。

「大般涅槃経」において釈尊が言われた。「すべての生きとし生けるものは、すべて仏(真実を体得した人)としての性質を有し、また一たび仏となったものは、永恒の存在として変異することがあり得ない。

釈尊の言葉「一切衆生悉有仏性如来常住無有変易」について道元禅師が注釈されます。
この「大般涅槃経」に説かれている言葉は、我々の偉大な師匠である釈尊の言葉である。この言葉は釈尊だけの考えではなくて、その他の真実を得られたたくさんの方々や仏教界のたくさんの先輩方の考え方であり見方である。この様な教えというものを釈尊以来勉強して来た年限が、すでに二千百九十年の長きに達して、現在は日本においては仁冶二年の年に当たっている。釈尊以来、代々の正しい後継者によってこの教えは引き継がれて来た。

その間における正統の後継者は僅かに五十代に過ぎず、(わが師天童如浄禅師に至るまで)西インドにおいて二十八代、中国においても二十三代にわたって、代々引き継がれて来た。そしてあらゆる方角におられるところの真実を得られたたくさんの方々がその教えを拠り所とし、その教えを保持して今日に至った。「大般涅槃経」の中に説かれた釈尊の言葉としての「一切衆生悉有仏性」の考え方の趣旨は一体どういうことであろうか。釈尊が「一切衆生悉有仏性」と説かれた教えというものは、我々の言葉では表現する事の出来ない何かが、現に我々の目の前にあると言う教えを説かれたものに他ならない。

経典の中では「衆生」という言葉を使い「有情」という言葉を使い「群生」という言葉を使い「群類」という言葉を使っているけれども、それらの言葉は、様々の生きとし生けるものであり様々の存在である。したがって、この世の中に存在するところの一切のものは、仏としての性質を具えている。

※西嶋先生解説
――ここのところが、道元禅師の思想の特徴のあるところ。「すなわち悉有は仏性なり」というのは、道元禅師がいわれた独特の言葉だ。普通、この「大般涅槃経」の文句というのは、一切の衆生は仏性を具えているというふうにとらえているわけだけれども、道元禅師は一切の存在するものはすべて仏性そのものだということを主張された。だからその点では、この世の中にある一切のものが真実そのものだという事を主張されて、釈尊の教えもまたそういう思想だという事を主張された。――

ここで一悉(一切の存在)という言葉が使われたけれども、一悉という言葉は、衆生(生きとし生けるもの)という事と全く同じものを指している。我々がこの娑婆世界で一所懸命に生きているその時には、一切が仏そのものに他ならないのである。釈尊以来、代々の祖師方によって引き継がれて来た、皮、肉、骨、髄という体の実体だけということではなくて、一切の人々が皮、肉、骨、髄を得たといわれているのであるから、真実を得た人と同じ性質を具えていると言う事が言える。



              ―西嶋先生の話―

私は、坐禅は非常に楽しいものだと思います。こんな偉大な道楽はないと思う。道の楽しみと書いて道楽。道楽という言葉は今はあまりいい意味に使いませんが、道の楽しみという点から言ったら、やっぱり最高の楽しみだと言うふうに感じますね。これはやっぱり我田引水だけれども、私は我田引水という事を自覚しながら、やっぱりそういうふうに感じますね。坐禅はやっぱり楽しんでやるべきものだと思います。しかめっ面をして無理に頑張るものではない。

坐禅が好きで、もうやらなければどうにも気持ちが落ち着かないと言う形で、毎日やると言う事が、坐禅の本来のやり方だと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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