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正法眼蔵 看経 22

大先輩である薬山惟儼禅師が、高沙弥に質問して言う。

禅師問う:お前は真実を得たといわれているけれども、経典を読むことによって真実を得ることができたのか、師匠の説法を聞くことによって真実を得ることができたのか。
高沙弥答える:自分は経典から得たわけでもありませんし、また師匠の説法を聞いて得たわけでもありません。
禅師問う:世の中には経典も読まなければ、説法も聞かないたくさんの人々がいる。それらの経典も読まず説法も聞かない人々も当然お前のように真実を得ていいはずであるけれども、いまだにそれらの人々が真実を得たという話を聞かないのは一体どういうわけか。
高沙弥答える:お経も読まない、説法も聞かないという人々がたくさんいるけれども、それらの人々が真実を得ていないというわけではない。ただそれらの人々は自分自身が真実と一体になっているという事を、(坐禅によって)身心を通して真実を直接、体に体験することを中々やらないだけであります。

道元禅師の注釈です。
釈尊の説かれた教えの中には、実際の生活の中で体験する、体験しないの違いはあるけれども、いずれにしてもお経を読んだり説法を聞いたりという事が、仏教を勉強していく人々のごく普通にやるべき事であるということは、この薬山惟儼禅師と僧侶の問答からわかる。

          「正法眼蔵看経」  
          1241年の秋、9月15日
          興聖宝林寺において衆僧に説示した。



               ―西嶋先生の話―
                         --つづき

「坐禅というのは腰を正しく保持する修行だ」といっても間違いないと思います。腰を正しく保持する修行というのは、坐禅だけの問題ではない。毎日走る事も、正しく腰を保持する事に役立っている。朝三十分走る事と、三十分坐禅をする事とどっちが楽かと言えば、三十分坐禅をする事の方がはるかに楽です。走る事は体を動かすという事、服装を変えるという事、汗の始末をすること等考えても、毎日やるとなったら人によっていろいろ違うかも知らんけれども、三十分走るよりは坐禅をしている方が、少なくとも体を動かす必要がないという事では、楽なのではないかというふうに感ずるわけであります。

だから「正法眼蔵」弁道話の巻の中で「坐禅は安楽の法門なり」といわれているのは、文字どうりに考えていいと思う。つまり、毎日走る事を努力するよりは、文字通り安らかで楽しい真実に入る道だという理解で間違いないと思います。ところが世間では、坐禅というのは、苦しいもんだというふうに宣伝が行き渡っている。坐禅というと「いやぁ、あれは大変だ」ということで「いや、やめたほうがいい」と「体が持たない」というような事をすぐいうわけだけれども、私がやっておる限り、実際にやってみるとそう苦痛なものではない。

ただ、やらないで傍から眺めると「いやぁ、大変だ」と言うふうなことになりがちな面もあると思います。その点では、坐禅というのは体育としての一面がある。だからやらないと始まらないという問題がある。甘いようで厳しい面もある。同時にやらなければ駄目だという問題があるから、本を読んで何とかわかるような工夫はないかという事に我々は考えがちだけれども、仏道は中々そういうわけにはいかない。実際にやらないと、仏道が出てこないという面があるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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