FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 看経 21

現在、釈尊以来の伝統を保持している教団においては、経典を読むその読み方については様々の種類がある。

一つには、寺院にたくさんの寄付をした人が寺院に来て、僧侶に対して「どうかお経を読んでください」と頼み、その頼みに従って僧侶が全員で経典を読む場合がある。あるいは何がしかのお金を寺院に寄付して、「毎日お経を上げてください」という頼み方をする場合もある。あるいは僧侶自身が自発的にお経を読む場合もある。このほか寺院のすべての僧侶が、亡くなった僧侶のために経典を読む場合もある。

――このように道元禅師は寺院で経典を読む場合の例を挙げられています。ここからしばらくは寺院に寄付を行った人が「寺院の僧侶全体でお経を読んでいただきたい」というような願いをした時に、寺院ではどのようなことをやるかという事が具体的に書いてありますが、自分(幽村芳春)は在家であり仏教を生業にしていないのでここでの話は省略します。――



              ―西嶋先生の話―

坐禅というものの本質が何かと言う事を、時々考えるわけでありますが、最近よく感ずる事は、坐禅というのは体育としての一面があるということを強く感じるわけであります。こういう考え方をすると宗教というものをいろいろ勉強しておられる人々、あるいは仏教というものを勉強しておられる人々はあまり歓迎しない。それはどう言う事かというと、宗教とか仏教とかというのは精神の問題であり心の問題であるから、体の問題を持ち出すなんていうのはあまり適当ではないと、そういう考え方が強いわけであります。

したがって、「体育としての一面がある」というようなことをいうと「解釈が非常に浅薄だ」と言う批評を受けがちなわけでありますが、「正法眼蔵」を読みながら坐禅というものを考えておりますと、坐禅というのはどうしても体育としての一面がある、と言うふうに考えざるを得ない。たとえば「正法眼蔵」の中に「心身学道」という巻がある。「心身学道」というのは、体と心で真実を学ぶ。普通、宗教は心で勉強するものというのが常識でありますけれども、仏教の場合は、体でも勉強するという考え方が非常に強いわけであります。

それが他の宗教と仏教という考え方の大きな違い、という事もいえると思います。ですから、我々が坐禅をやっておって、どういう変化が出てくるかと言うと、腰の周辺の筋肉が発達して、腰骨が正しく保持で出来る様になるという事があると思います。腰骨が正しく維持できると、その上に背骨が正しくのっかって、その上に首の骨が正しくのっかるということで、いわゆる姿勢が正しくなるという問題があるわけでありますが、姿勢が正しくなる基礎というのは、腰骨が正しいかどうかという事にあるようであります。

そういう腰の保持の仕方ができてくると、気持ちが不安定にならない。クヨクヨしたり、あるいは心配したりと言う事が起きなくなる。日常生活で、街を歩いておっても、立ち止まっておっても、あるいは寝ておっても、気持ちの不安定というものがないという事がいえると思います。それが仏道だ。だから仏道と言うのは、単に心の問題ではなしに、体からつくっていかないと実現しないもんだと、そういうことがいえると思います。

                             つづく--


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

ご訪問ありがとうございます。 にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

FC2カウンタ-