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正法眼蔵 看経 20

雲居道膺禅師の教団に一人の僧侶がいて、ある時、自分の部屋で経典を読んでいた。その時、窓の外を通りかかった雲居道膺禅師がその僧に質問した

雲居道膺禅師問う:お前さんが今、声を出さずに読んでいる経典は一体何の経典だ。
僧答える:これは「維摩経」であります。
雲居道膺禅師言う:私はお前に経典の名前が「維摩経」だと言うふうな事を聞いたのではない。お前が読んでいる経典は、言葉で説明する事のできない何かを教えている経典だ。

この雲居道膺禅師の言われた言葉を聞いて、この僧侶は仏道の真実がわかった。

雲居道膺禅師と僧侶との問答について道元禅師が注釈されます。
ここで雲居道膺禅師が言っておられるところの「お前が読んでいる経典は、言葉で説明する事のできない何かを教えている経典だ」という言葉は、心の中で念じているその心の中身というものを取り上げる必要がないほど、永遠の意味を持ったものである。

我々の人生は、実に厳しいものである。どこでどの様な危ない目に合わないとも限らない。我々の日常生活、我々の人生そのものがウカウカとはしていられない世界である。雲居道膺禅師は「何の経典を読んでいるか」という質問で、この我々の人生は、実に解きがたい深い意味を持ったものであって、言葉では表す事が出来ないと言う事を言われたのである。そしてこの僧侶もまた、雲居道膺禅師のような優れた師匠に対しては、間違った事を言うことはできないから、素直に「維摩経を読んでおります」と答えたのである。

総じて僧侶が経典を読むと言う事は、仏教界において真実を得られたすべての人々を一まとめにして、その一まとめにした膨大な智慧を眼として経典を読むことである。この様な立場で経典を読む、まさにその瞬間においてはその真実を得た人になり得たところの経典を読んでいるご当人は仏になり、釈尊の説かれた真実を説き、釈尊とは何かを説き、釈尊と同じ行動をするのである。この様な過去における諸先輩の一切を一まとめにした立場で、経典を読む時点においてでなければ、真実を得た方々と同じ意味での頭や顔や姿というものは、とうてい現れてくるものではないのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
脳波計で測りますと、坐禅を熟練したお坊さんはすぐ平らになるとか、あるいは血圧が下がるとかなんか、そういった点はどうなんでしょう。

先生
気持ちの落ち着くという事は言えますよ。だから、いつまでも乱れている人と、長年坐禅をやった結果、早く落ち着ける人との違いはあると思いますよ。だけどいかに長くやっておってもすぐ無念夢想になるという事はないですね。少なくとも40年やって来た私の経験ではない。

質問
まあ、坐りだこはできましょうね。

先生
ええ。それでやっぱり大事なことは、背骨を正しく保持する筋肉が発達するという事ね。永年坐禅をしておれば、これは絶対にありますよ。だからちょっとやそっとの事では背骨が狂わなくなるという事はあります。それが大事なんだ。だから坐禅の効果というと、腰の維持の仕方ですよね。腰の維持がしっかりしておれば、どんな時でも智慧が出ていい対処ができるわけですよ。それが出来てないと、不安定になって、あっちへ迷い、こっちに迷うという恐れが出るわけです。 
                        

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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