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正法眼蔵 看経 17

薬山唯儼禅師は、常々人に対して経典を読む事を許されなかった。ところが、ふだん弟子に対して「経典を読んではならん」と言っていた薬山禅師がある日、経典を手にして自分で読んでおられた。そこである僧が質問した。

僧問う:和尚は常々、人に対して経典を読む事をお許しになりません、それがどうしてご自分から経典を読んでおられるのですか。
薬山禅師言う:仏道修行によって、あまりものがはっきりと見え過ぎるから、ちょっとそれをボンヤリさせるために経典を読んでいる。
僧問う:私も和尚と同じように、経典を読んで眼のハッキリしすぎているのを、少し曇らせるという事をやってもよろしいでしょうか。
薬山禅師言う:もしお前の様にハッキリものを見ている場合には、、あるいはあまりにも頭が先走って理屈ばかりで何でも見ている場合には、仮に経典が牛の皮で出来ていても、お前の見方があまりにも鋭すぎて、その牛の皮の経典にも穴があいてしまうかもしれない。


薬山唯儼禅師と僧侶の問答について道元禅師が注釈されます。
この薬山禅師の「自分はただ眼を少しばかり曇らせるために、経典を読んでいる」と言う言葉は、鋭すぎる眼をほどほどに曇らせている薬山禅師のお立場から自然に出てきた言葉である。ここで薬山禅師が「眼を曇らせる」と言っているのは、言葉を変えて言うならば、ウの眼タカの目で、キョロキョロと絶えず探し回っている態度を止める事であり、経典に何が書いてあるかと言う事で経典の中の文句を見つけまわる事を止める事であり、眼さえあれば何でも見えると言う錯覚を止める事であり、眼の限界を知って、眼の機能をあまり大きく期待しない事でもある。

このように眼を少し曇らせると言う事は、また逆の立場から考えるならば、ボンヤリしている中でもさらに眼を見開く事であり、眼をボンヤリさせていても、眼の機能はますますイキイキとしている事であり、眼においてボンヤリさせると言う事を十分に活用する事である。瞼を閉じれば見えなくなる眼の他にさらにもう一枚、眼を閉じたり、眼を開いたり、自由自在に調節する事の出来る自分の立場を確立する事であり、眼をハッキリさせないと言う状態の中で、眼そのものの機能を十分に発揮する事であり、眼がその本来の働きとして、あまり見えすぎないと言う状態になっているという事である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はいつか「スポ-ツというものは仏道にかなう」というような意味の事をおっしゃたことがありますけど、これはどうですか。

先生
これはね、人間が一所懸命やっているときというのは、つまらんことも考えていないし、何か他のものに執着しているという事でもないし、人間としてはかなり高い境地の状態ですよね。そのことが何かを一所懸命やっているというようなときには出てくると、そういう事ですよ。だからスポ-ツを一所懸命やっているというのも同じような意味がある。

質問
これが戦争となると、どういうことになりますか。

先生
戦争をやっておる兵隊そのもののあり方というのは、どうこうとあまり言えない問題だと思いますよ。ただ戦争を決定して実行する国家自身の行動がどうかという問題はある。そういうところへもっていった国の指導者はどうかという問題はあるけれども、いざ戦争が始まったときに、ドンドン、パチパチやっている兵隊について、道義的責任がどうこうと言ってみても、これはあんまり意味がないんじゃないかという気がしますね。

質問
自分勝手に戦列を離れちゃいかん、という事ですか。

先生
う-ん、自分勝手に戦列を離れるという事だけが道義的な個人のあり方かどうかという事は、私は疑問だと思いますね。個人の倫理だとか道徳というのは、そういう環境から遊離したところで「こうならなければならん」という風な問題じゃなくて、周囲の環境の中でどう動くかという問題がある。

だから「私は反戦!」というようなことで、兵役が来た時に逃げ回っているのは「あの人は立派だ」というわけには中々いかんのじゃないかと。その国その国について色々な政治環境があって、その中での出来事なんでね。そういう立場がいいのか悪いのかというようなことは、軽々には結論が出せないと思います。

よく「第二次世界大戦のとき亡くなった方は犬死だ」いうような考え方があるけれども、私はそんなことはないと思います。あの歴史的な時代の中においては、死ななければならなかったんだし、死んだという事が決して無駄だとか何とか勝手な評論はできない、という問題がどうもあると思います。

質問
ま、気の毒でそういうことは申せないし、まあ言えないという事ですね、それは。

先生
ええ、それと同時に、そういうことを主張することが正しいのかどうかね、これ非常に疑問があると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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